日本人初の五輪挑戦は「惨敗」だった 途中で意識不明…翌日に目覚めたマラソン選手の“54年後のゴール”
「THE ANSWER 陸上PLUS」は陸上競技の歴史・変遷を掘り下げ、その価値を問い直す連載「荻島弘一の陸上クロニクル」を展開。スポーツ新聞社で五輪を長年取材してきたスポーツライター・荻島弘一氏が執筆する。第2回は「日本人のオリンピック挑戦」をひも解く。

「THE ANSWER 陸上PLUS|COLUMN」 荻島弘一の陸上クロニクルVol.2
「THE ANSWER 陸上PLUS」は陸上競技の歴史・変遷を掘り下げ、その価値を問い直す連載「荻島弘一の陸上クロニクル」を展開。スポーツ新聞社で五輪を長年取材してきたスポーツライター・荻島弘一氏が執筆する。第2回は「日本人のオリンピック挑戦」をひも解く。
【注目】「この体重でも跳べるんだ」 月経異常や骨密度低下を経験、引退後に気づいた数字に縛られない体作り(W-ANS ACADEMYへ)
◇ ◇ ◇
2024年パリ五輪、日本は海外で行われる大会としては過去最多の409人の大選手団を編成した。男子218人、女子191人。最多は陸上競技と水泳(競泳、飛び込み、水球、AS)の55人で、サッカーの36人が続いた。今や4年に1度、日本中が沸く五輪。その第一歩を記したのは2人の陸上選手だった。
1912年(明治45年)5月16日、初めて五輪に参加する日本選手団が、多くの人に見送られて新橋駅を出発した。初の「チームジャパン」は、陸上短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三。団長として率いたのは、講道館柔道の創始者で大日本体育協会初代会長の嘉納治五郎だった。
同大会は競泳やサッカー、体操、レスリングなど15競技が行われていたが、まだ日本のスポーツ界は発展途上で、多くの選手を送り出す組織も資金もなかった。前年に行われた予選会で金栗は当時の世界記録を上回る2時間32分45秒でゴール、短距離の三島とともに日本初の五輪選手になった。
開会式で旗手を務めた三島は直後の100メートルに出場したが予選落ち、200メートルも予選で敗退した。400メートルは準決勝に進出したものの、足の痛みで棄権。初めて世界に挑み、その高い壁に跳ね返された。
マラソンは、気温40度という高温で参加選手の半分が途中棄権し、ポルトガルの選手が死亡するほどの過酷なレースだった。金栗も日射病のために途中で意識を失い、近くの家で介抱された。目を覚ましたのは競技の翌日で、レースは棄権。こちらも失意のうちに帰国した。

日本陸上界の初の世界挑戦は「惨敗」だったが、これにはいくつか理由がある。日本からスウェーデンまで船とシベリア鉄道で20日間をかけた移動が心身に負担をかけたこと、食事面やレース環境など慣れない海外の試合で力が出せなかったことなどが原因とされている。
途中で「行方不明」になった金栗のマラソンには続きがあった。1967年3月、金栗は五輪開催55周年を記念するイベントに招待されて用意されたゴールテープを切った。場内には「日本の金栗、タイムは54年と8か月6日5時間32分20秒。これで第5回ストックホルムオリンピック全日程を終了します」のアナウンス。金栗は「長い道のりでした。この間に結婚し、子どもが生まれ、孫もできました」とあいさつした。
114年前、日本の五輪初参加は波乱に満ちていた。ただ、三島と金栗の挑戦が、その後の日本陸上、いや日本スポーツ界に与えた影響は大きい。日本の世界への第一歩は、2人の陸上選手が記した。
(荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima)
![[THE ANSWER] スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト](https://the-ans.jp/wp-content/themes/the-answer-pc-v2/common/img/logo_c1.png)









