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聞こえなくても届く声援「力になった」 認知度向上へ、デフハンドボール日本代表の大きな夢

手話を交えて観客にあいさつするパラハンドボール日本代表の辻井隆伸主将【写真:編集部】
手話を交えて観客にあいさつするパラハンドボール日本代表の辻井隆伸主将【写真:編集部】

亀井監督の大きな夢「いずれは、デフスポーツのモデルになれれば」

 一方、デフハンドボールは「始まったばかり」と亀井監督。デフリンピック競技となったのは1969年だが、日本にはデフの組織やチームはなく、東京大会を目指して日本協会内に専門委員会ができたのが23年12月。初代日本代表監督に亀井氏が就任したのが昨年6月、本格的な代表活動は8月からだった。

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 歴史は浅いが、日本協会内に組織ができたことはプラス。月1回はナショナルトレセンを使えるし、日本代表との情報共有、人的交流も円滑に進むだろう。「同じ協会内にあることが、強みになる」と、日本協会デフ専門委員会の中村有紀委員長。亀井監督も「いずれは、デフスポーツのモデルになれれば」と大きな夢を口にした。

 もっとも、現状は厳しい。初のデフリンピック挑戦は選手集めから。トライアウトや他競技からの転向などで選手を募ったが「まだ知られていない。知ってもらうためにも、今日の試合は大きかった」と亀井監督。「ハンドボール経験者の中にも、聴覚に障がいを持つ人はいるはず。そういう選手に来てもらえれば」と期待した。

「デフの司令塔」として日本代表の攻撃をリードした津村開【写真:編集部】
「デフの司令塔」として日本代表の攻撃をリードした津村開【写真:編集部】

 この日、司令塔として異次元のプレーを見せたCB津村開は小学校でプレーを始め、大阪公立大まで健常者の中で活躍してきた本格的な経験者。しかし、昨年8月にハンドボール日本代表のPSG戦を観戦するまではデフハンドボールの存在すら知らなかったという。

 代々木体育館のスタンドで観戦していた時、偶然後方の席にいて補聴器に気づいたデフ代表の選手たちから声をかけられた。「一緒にデフハンドボールをやらない?」。直後の練習会で「一発合格」。初めての手話にも挑戦した。「覚えるのは大変で、細かい指示を伝えるのは難しい。でも、プレーできて楽しいです」と話した。

 小柄ながらスピード抜群、巧みなフェイントとトリッキーなパスで攻撃をリードすることを楽しむ姿は、日本代表のエースに似て「デフハンドの安平光佑」。本人は「遠く及ばないけれど、1学年上で小学生の時からあこがれていました。身体が大きくないのが同じなので、よくプレーは真似していました」と照れながら話した。

 亀井監督が「津村の個人技に周りが合わせられるようになれば、さらに攻撃はよくなる」と話すように、チームメートとの実力差があるのは確か。「初心者」を鍛えるとともに、新たな選手の発掘もチーム力アップのカギになる。聴覚に障がいを持つ経験者「第二の津村」の挑戦を促すためにも、デフハンドボール浸透が急務だ。

 この日は「けが人や招集できなかった選手もいて、まだ日本代表は選考段階」と亀井監督。あえて、公式には「日本代表」とせず「デフハンドボールチーム」として試合に臨んだ。「ここがスタートですが、東京大会で終わりにはしたくない。東京大会以降も続けていきたい」。デフリンピックでの「世界での1勝」を目指す日本代表の亀井監督は、デフ競技の未来を見つめて話した。

(荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima)

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荻島 弘一

1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。

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