「人生4周分の注射」で耐えたW杯 手術8度、ビジネス雄叫び…最高に“漢”だったラグビー人生――垣永真之介

進化に導いた出会い「ダルマゾですね。最初にスクラムを…」
「就職を考える頃は日本代表を目指していた。それで代表でも活躍していたハタケさんがいたサントリーへ行こうと考えました。ハタケさんを超えたらジャパンじゃんと思ったんです。でも、やはりプレースタイルですよね。僕もPRだけどアタックが好きだったので、そこが自分に合うなと思った」
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ハタケさんとは、日本代表PRとして2011、15年W杯にも出場した畠山健介。早稲田の先輩でもあり、通算キャップは歴代PR最多の78を数えるレジェンドだ。カッキー自身は社員選手としてのサントリーでの挑戦だったが、入社1年目の2014年には“公約”通り代表入りを果たし、11月のジョージアとの敵地戦では、畠山との交代出場で初キャップも獲得。だが、ここまでの“山”だったラグビー人生が“谷”に陥ることになった。
15年W杯は畠山らのバックアップ要員。悔しい次点に甘んじ「次回こそ」という立ち位置にいたが、翌16年の招集を最後に、代表というステージからカッキーの名は消え去ることになる。日本ラグビー協会(JRFU)は代表強化のために、南半球諸国を中心に行われていた国際リーグ「スーパーラグビー」に、16年のシーズンから代表および候補選手を中心に編成された「サンウルブズ」を参加させた。当時まだ1桁キャップ数だったカッキーも勇んで加入はしたが、そこで膝の前十字靭帯を断裂する重傷に見舞われた。
復帰へ年を跨ぐような、選手生命にも関わる重傷がその後のキャリアに大きく影響することはラグビーでも珍しいことではない。2年、3年と、代表のメンバーリストに「垣永」の名前は無かったが、それでも諦めなかったのは、代表を離脱する前のある出会いがカッキーを一歩一歩進化させていたからだ。
「ダルマゾですね。最初にスクラムを叩き込まれたのは」
2015年W杯へ向けた強化で、スクラムコーチとしてやって来たのが元フランス代表HOマルク・ダルマゾだった。フォアグラを生産する農家を営みながらフランス代表の強烈なスクラムを支え、現役引退後はスクラムコーチとして手腕を振るってきた。エディー・ジョーンズ・ヘッドコーチ(HC)が「スクラムを教えるには、スクラムが無ければ死んでしまうような、狂気のような情熱を持つコーチが必要」と唱えて、フランスからわざわざ呼び寄せた男が、カッキーを大きく進化させることになった。
「とんでもない量のスクラムを組まされましたけど、僕にとっては初めて“スクラムを形で作れる人”との出会いだった。脇はこうだ、肩はこうだというコーチはいっぱいいたが、8人の形として考え、本当に細かく足の位置などまで拘り、こういうスクラムを組んで、塊として世界と戦うという意識を持って教えてくれた。凄いコーチでした」
当時のカッキーは、フロントローとしては抜群の機動力を持つ一方で、スクラムでの評価は、その巨漢からの期待には届かなかった。だが、まだまだ畠山の背中を追う時代の、ダルマゾからの学びとテストラグビーの経験で、“スクラム師”としての水面下での進化は始まっていた。生憎、大怪我で代表からの長き不在を強いられたが、5年ぶりの復帰となった21年のスコットランド戦(英・エディンバラ)からは、機動力だけじゃない「新生カッキー」を見せ始めていた。カッキー自身、この試合を真っ先に現役時代の印象に残る試合に挙げる。
代表復活を遂げたこのシーズン前は、実は現役引退を初めて考えた時期でもあった。
「辞めるタイミングを自分で探していたんです。その1回目ということです。このままいっても仕方がないなと感じていました。自分の中で、この1年で芽が出なかったら辞めようと決意していた。そう決めたから、毎日のように個人で朝練をしていた。そこでアオさん(青木佑輔)が付き合ってくれたんです。これはこうだ、あれはこうだと、いろんな話をしながら。あのおかげが先に繋がったんです」
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