五輪メダルを真っ二つに割った日本人2人 陸上史に残る「友情のメダル」…幻の東京五輪、そして1人は戦死
「THE ANSWER 陸上PLUS」は陸上競技の歴史・変遷を掘り下げ、その価値を問い直す連載「荻島弘一の陸上クロニクル」を展開。スポーツ新聞社で五輪を長年取材してきたスポーツライター・荻島弘一氏が執筆する。第10回は「90年前に生まれた『友情のメダル』と、その後の2人の運命」をひも解く。

「THE ANSWER 陸上PLUS|COLUMN」 荻島弘一の陸上クロニクルVol.10
「THE ANSWER 陸上PLUS」は陸上競技の歴史・変遷を掘り下げ、その価値を問い直す連載「荻島弘一の陸上クロニクル」を展開。スポーツ新聞社で五輪を長年取材してきたスポーツライター・荻島弘一氏が執筆する。第10回は「90年前に生まれた『友情のメダル』と、その後の2人の運命」をひも解く。
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「友情のメダル」と聞いても、ピンとくる人はほとんどいないかもしれない。ただ、年配の人なら覚えているかもしれない。小学校の国語や道徳の教科書でも紹介されたオリンピックの物語。当時の子どもたちは、この話でオリンピックを知り、スポーツの素晴らしさに触れた。
1936年ベルリン大会、陸上競技の棒高跳びでの話だ。決勝には2人の日本選手、26歳の西田修平と22歳の大江季雄が出場していた。ただ1人4メートル35を跳んだアメリカのアール・メドウスが優勝し、4メートル25の日本選手2人が2位と3位を争うことになった。
今なら試技回数で順位を決するが、当時は決着がつくまで跳び続けるルールだった。いや、実は大会前に試技回数によって順位をつけるルール変更は決まっていたが、適用は大会後から。午後5時に始まった決勝は延々と続き、すでに時計は9時を過ぎていた。
「同じ日本人同士だし」という理由で競技は打ち切られた。同記録の2人は2位で並んだものだと思い、表彰式では前回大会銀メダルの西田が大江に2位の座を譲った。そのまま2人は銀と銅のメダルを持ち帰った。
ところが、大会側は試技回数による順位付けを前倒しで採用。4メートル25を1回目に跳んだ西田を銀に、2回目に成功した大江を銅とした。大会から送られた賞状で3位であることを知った大江側がメダルの交換を求めた。
困惑した西田は大江に銀と銅のメダルを2つに分け、つなぎ合わせた銀・銅混合メダルを作ることを提案。2人は世界に2つしかない特製メダルを持った。大舞台で死力を尽くして戦った2人だからこそのメダルは戦後、「友情のメダル」として紹介されて広く知られることになった。

1936年大会の次は1940年に東京でアジア初のオリンピックが開かれることが決まっていた。2色の特製メダルには、2人の「次は金メダルを」という思いが詰まっていたに違いない。ところが、1940年大会は戦火の拡大を理由に返上。大会自体も中止になり、2人の願いは叶わなかった。
大江は陸軍に召集され、1941年にルソン島で戦死。西田は「大江の分まで」と引退後も陸上競技の普及や後進の指導に尽力し、1997年に87歳で亡くなった。オリンピック、友情、そして戦争…。90年前の「友情のメダル」の物語は、今も色あせることはない。
(荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima)
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