強豪の誘い断り…異例の2部挑戦 ラグビー界サプライズ人事、大学日本一「八幡山のタイソン」の決断
釜石SWの桜庭吉彦GMが語る獲得の理由「大学3年の時には…」
「少なくとも大学3年の時には彼をリストアップしていましたね」
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そう振り返るのは釜石SWの桜庭吉彦GMだ。自身も新日鉄釜石時代に不動のLOとして活躍して、日本代表としてワールドカップ3大会に出場してキャップも43を数える。当時192cmという身長は、国内では破格のサイズ。秋田工高時代から注目された桜庭が引く手数多の大学からの誘いを蹴って国内最強チームにやって来たのは、釜石が全国社会人大会、日本選手権で前人未到の7連覇を遂げた翌年の1985年のことだった。
伝統的に、メンバーの多くが岩手を中心とした東北の高卒選手だった。釜石製鉄所の高炉で働きながら凍てつく大地で楕円球を追い続けた。その一方で、南アフリカの指導者ダニー・クレイブンのラグビー理論書を翻訳して強化に生かすなど、当時の国内ラグビーでは先進的な情報も吸収しながらチームは力を付けていった。
1970年代には明治大で活躍した天才司令塔・松尾雄治、そして現役引退後は日本ラグビー協会会長も務めた森重隆(CTB)ら大学トップクラスの選手が加わり、7連覇という無敵の時代を築き上げた。高卒の選手らを中心に、東北のチームらしく泥臭く、粘り強いFW戦を武器とする一方で、松尾のようなゲームをコントロール出来る才能がエッセンスとなり、FW、BK一体となってボールを繋ぐ華麗な展開ラグビーを創り上げた。見る者を魅了する硬軟織り交ぜたスタイルと圧倒的な強さで、いつしかファンからは愛着と敬意を込めて“北の鉄人”と呼ばれるようになった。
最強時代を築いた新日鐵釜石だったが、桜庭の入団を境にするように“陰り”が見え始めた。高度成長が終焉を迎えようとしたこの時代、“鉄冷え”による新日鉄の経営上の苦戦や、チームの世代交代が大きく影響した。釜石以外の社会人チームも強化に本腰を入れたこともあり、チームは84年度の優勝を最後に王座から陥落。以降、シーズンを追う毎に成績を下げ、下部リーグへと沈んでいった。2001年に新日鉄がラグビー部を廃してクラブチーム化したことで、チームは更に苦戦を強いられることになった。
リーグワンの前身トップリーグでは、2003年の発足当時の実力による振り分けで下部リーグのトップイーストに回ると、リーグワンでも開幕シーズン前年の成績によりディビジョン2所属となり、ここまで最上位リーグ(ディビジョン1)への昇格を果たせないまま、今季もディビジョン2第6節を終えた2月22日現在で8チーム中暫定5位というのが2000年以降の実力だ。
そんな釜石SWを、大学最強チームの核として活躍した太尊は選んだ。釜石の黄金時代を知るファンも年を追って減ってきている中で、22歳のバックローは「新日鐵釜石の7連覇の時代を、僕は知っています。なので、あの時代に負けないくらいのチームに成長出来ればいい」と釜石再興への思いを語る。全盛期の試合動画や、釜石出身で自らも秋田でラグビーをしていた父からの伝聞で、その黄金時代の雄姿を知っている。
チームもここ数シーズン、1部リーグの大学チームからも東北出身の選手を中心に好素材が集まっている。太尊と同時に発表された新戦力には、同じ明治大の優勝メンバーLO/FL菊池優希(山形中央高出身)、ラグビー界では無名の江戸川学園取手高から早稲田大に進学して強力PRとして活躍した山口吉博氏を父に持つPR山口湧太郎(桐蔭学園高―早稲田大)が名を連ねた。その中でも、ユース代表で活躍して、日本代表入りも嘱望されるレベルの選手の獲得は異例のこと。桜庭GMが太尊獲得の経緯をこう振り返る。
「まずは彼のプレーヤーとしての評価で、獲得リストに入れました。それに加えて、秋田出身で高校は仙台、父親も釜石生まれというように、岩手だけではなく東北でのラグビーの振興やチームの認知度を上げていきたいという面でも、彼に来て欲しいなとは考えていました」
先ずは能力ありき。その中で、やはり地域性にこだわり、東北の力を釜石に集結させたいというのが釜石SWのリクルート戦略だ。そんな選手獲得の取り組みの中で、最上級のポテンシャルを秘めた存在が今回入団に至った最上太尊だった。
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