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野球界にとどまらない長嶋茂雄さんの功績 “野球なき時代”から五輪に情熱、知られざる「日本トライアスロンの父」の顔

 トライアスロンだけでなく、とにかくスポーツ好き、オリンピック好きだった。きっかけは64年東京五輪。当時はまだWBCも五輪野球もなく、国を代表して戦う選手たちの姿が新鮮だった。野球以外にも様々なスポーツがあることも知った。

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 最初の浪人時代も、84年ロサンゼルス、88年ソウル、92年バルセロナと、3大会連続で現地へ赴き、世界のスポーツに触れた。「楽しいですよ、オリンピックは。スタンドに国旗が揺れて、お祭り。スポーツはこうでなくては」と話してくれたのが懐かしい。

 2度目の巨人監督勇退後、アテネ五輪を目指す野球の日本代表監督になったのは有名だが、同時に日本オリンピック委員会(JOC)のエグゼクティブアドバイザーにも就任している。競技の枠を超えて強化に助言し、スポーツ界を活性化させる役割だった。

 陸上、水泳、柔道、レスリング、ハンドボール……いろいろな競技を見て回り、コーチや選手の話を聞いたという。忙しい身ながら公式に視察することもあれば、ふらりと現れることもあった。当時の選手は現役時代の「ミスター」は知らないはずだが「長嶋さんが来て、緊張しました」という声は何度も聞いた。

 選手たちへの激励も忘れなかった。強調したのは「勝つこと」の重要性。巨人監督時代の94年、中日との優勝をかけた最終戦は「国民的行事」と自ら言い、選手たちに「勝つ」を連呼したことで有名だが、同じように五輪を目指す選手たちに「やるからには勝つ、勝ちましょう、勝つんだ」と言ったという。

 選手に説いたのは日の丸を背負うことの重み、応援してくれるスタンドのお客さんを喜ばせることの大切さ、そして勝つこと。「プロもアマも関係ない。スポーツだから」と話した。病気のためにアテネ五輪参加はならなかったが、長嶋さんのゲキを受けた各競技の選手は本番で活躍。当時史上最多タイの16個の金メダルを獲得した。日本勢の躍進の陰には「燃える男」の存在もあったに違いない。

 最後にじっくり話を聞いたのは64年東京五輪からちょうど50年の2014年だった。五輪の野球・ソフトボール以外に野球の話はなく、五輪に関連した話だけだったが、長嶋さんの話は止まらなかった。

 半世紀前のモノクロ写真を見ながら「ヘイズ(陸上)、チャフラフスカ(体操)、ヘーシンク(柔道)」と、世界の選手の名前を連呼し、最初の東京五輪のことを懐かしく振り返った。そして、6年後の2度目の東京五輪に向けて「楽しみですね。またオリンピックが来るんですから」と話していた。

 そして、本番では聖火ランナー。王貞治、松井秀喜の両氏とともに長嶋さんが登場した時の感動は、今でも忘れられない。「世界的な知名度が」という声もあったが、関係ない。やはり長嶋さんは永遠のヒーローだし、スーパースターなのだ。

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荻島 弘一

1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。

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