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柔道の「柔よく剛を制す」は本当にあったのか 「言い訳だったのでは」と思い始めたかつての日本と世界、近年実った「剛」のカタチ

中量級のレジェンドたちにとっても目標だった無差別の全日本

「柔よく剛を制す」の話題になると必ず出てくるのが中量級(80キロ級)の選手ながら全日本選手権を2回制した「昭和の三四郎」岡野功の名だ。同じく中量級ながら72年大会で優勝した関根忍の名前もあがる。この2人が史上最軽量の全日本王者だ。

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 もっとも、2人に「中量級選手の自覚」はなかった。「柔道は無差別が当たり前」だった時代。岡野氏は「全日本選手権しか考えていなかった」と話し、関根氏は「中量級なんてコリゴリ、やりたくないと思っていた」と明かした。

 体重78キロだった岡野氏は、初めて五輪で柔道が行われた64年東京大会に「中量級」で出場して金メダルを獲得し、翌65年の世界選手権でも同級で優勝した。それでも「無差別で勝たないと意味がない。目標は全日本選手権だけだった」と述懐した。

 全日本で勝つために、導入されたばかりの階級別大会では重量級に出場した。「80キロまで増量して、足りなければパンツの中に重りを入れて計量をクリアした」。思いが実って67年に全日本初優勝。68年は準優勝だったが、69年に2度目の優勝を果たし引退した。

 72年の全日本選手権で優勝した関根氏も「全日本をとった後、五輪に出ろと言われた。それも中量級で」。64年東京大会以来の五輪実施となった72年ミュンヘン大会。今でこそ考えられないが、五輪は全日本の「おまけ」。関根氏には「罰ゲーム」に近かった。

 全日本選手権後のケガで稽古ができず、体重オーバーでミュンヘン入り。「減量なんてやったこともなく」飲まず食わずで体重は75キロまで減った。金メダルは獲得したが「内容が悪い」とコーチ陣は不満顔。「恥ずかしいメダル。もうオリンピックはコリゴリ、中量級もコリゴリだと思った」と苦笑いで話していた。

 東京五輪で3階級すべてで金メダルをとりながら、無差別級がヘーシンクに敗れたことで「日本柔道惨敗」と言われた時代。岡野氏も関根氏も、無差別に重きを置いて柔道ができた。もっとも、今は階級制が当たり前。無差別の戦いは余裕がないとできない。岡野氏からは「今の選手はかわいそうだね」と聞いたこともある。

 90年大会、71キロ級の古賀稔彦が100キロ超の選手を次々と破って決勝に進んだ。決勝では95キロ超、無差別の世界2冠王者の小川直也に投げられたものの、大会を沸かせた。94年大会では78キロ級の吉田秀彦が準決勝で6連覇を狙った小川を破って決勝進出。決勝で金野潤に敗れたが、講道学舎の先輩でもある古賀に続く快挙だった。

 古賀や吉田が活躍した90年代、世界選手権はまだ隔年開催で、五輪中間年は実施されなかった。2人は階級制の大会を気にせずに無差別の戦いに専念できた。「平成の三四郎」と呼ばれた古賀氏は「あの時は本気で勝つつもりで大会に臨んだ。今は毎年世界選手権があるし、無差別の試合に集中できない。もう『三四郎』が誕生することはないでしょうね」と話していた。

「柔よく剛を制す」は柔道のロマンだが、半世紀の間に現実からは遠ざかっていった。岡野氏は「もし古賀が階級制の試合に出ずに無差別に専念していたら、全日本をとれたかもしれない。でも、今の柔道では難しい。大きな相手に勝つためには技を磨く必要があるけれど、試合が多くて時間もない。だから、今の選手はかわいそうだよ」と話す。大野が口にした「幻想」は本当かもしれない。

 阿部は階級制の大会の合間を縫って全日本選手権に挑んだ。階級制の試合をやめて無差別の戦いに専念すれば、全日本でも上位、もしかしたら決勝進出や優勝も可能かもしれない。とはいえ、五輪をあきらめて全日本選手権に専念することは現実的ではないし、本人を含めて誰も望まないはずだ。今の柔道は「階級制」なのだから。

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荻島 弘一

1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。

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