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世界渡り歩いたタイの歴史的名手が明かす、日本サッカーが強くなった理由

ヴィタヤ・ラオハクルは、タイを代表する歴史的な名手である。引退後は指導者に転身し、タイや米国でキャリアを重ね、日本でもガイナーレ鳥取の監督を務めた経験を持つ。インタビューは8年前になるが、ヴィタヤは関西弁で流暢に答えてくれた。

日本、ドイツ、米国でも活躍したタイの名手、ヴィタヤ・ラオハクル

「日本が強くなったのは、世界に追いつくためには何が必要かを先に気づき、実行に移したからさ」――ヴィタヤ・ラオハクル~タイ代表について

 ヴィタヤ・ラオハクルは、タイを代表する歴史的な名手である。マレーシアで開催されたムルデカトーナメントの日本代表戦で2ゴールを決め、当時のヤンマーディーゼル(セレッソ大阪の前身)に移籍。さらにタイ代表としての国際試合で評価されて、ヘルタ・ベルリンへと移籍してブンデスリーガでも活躍した。引退後は指導者に転身し、タイや米国でキャリアを重ね、日本でもガイナーレ鳥取の監督を務めた経験を持つ。インタビューは8年前になるが、ヴィタヤは関西弁で流暢に答えてくれた。

「タイ代表に選ばれたのは18歳。タイではサッカーが一番人気のある競技なので、いつも新聞の一面で扱われ、女の子がボクのユニホームを欲しがったり、食事に誘って来たりで大変だった」

 23歳で来日したヴィタヤは、ヤンマーの高いテクニックを駆使してスピーディーなプレーで釜本邦茂らと連携した。

「当時はまだテクニックや状況判断では、日本よりタイの方が上だった。でも日本の方がフィジカルが強くて、練習メニューも豊富だった」

 欧州でプレーをした最初のタイ人選手で、厳しい洗礼も経験した。

「ヘルタに合流して最初の体力テストで最低ラインをクリアできなかった。チームメイトが僕の方に唾を吐いて“さっさと奥さんにでも代われ”と言われたよ」

 こんな状況に耐えられるタイ人は、ほとんどいないと言う。

「かつてタイ代表をデットマール・クラマーさんが指導したけれど、怒って1週間で帰ってしまった。練習態度があまりに怠惰で、心拍数を1分間で150くらいまで上げるように言っても、せいぜい90くらいまでしか上げない。クラマーさんが“帰れ!”と言うと、本当に帰ってしまった」

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加部 究

1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近、選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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