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トルシエから「100%信頼されていなかった」 宮本恒靖が日韓W杯時の“関係性”を吐露

シドニー五輪後は「100%信頼されている感じではなかった」

 試合後、宮本はトルシエに肩を叩かれ、軽く握手をした。特に言葉はなかった。もっともこれまでも試合後に、指揮官から声をかけてもらうことは少なかった。

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 宮本は選手として、トルシエとの関係をどのように見ていたのだろうか。

「五輪代表の頃は信頼を得た感じはあったけど、(シドニー五輪が)終わってからは自分以上に良いパフォーマンスをしていた選手もいたし、自分は100%信頼されている感じではなかった。ワールドカップで戦える選手であることを見せてメンバーには入れたけど、『こいつ、大丈夫かな?』と思って起用していたと思うし、それはすごく感じていた。でも、そのなかでもやるのが選手。そこで監督に対して懐疑的になっても仕方ないから、やるべきことに集中した」

 トルシエの代名詞である戦術“フラットスリー”の中核を担う1人として、02年日韓W杯までの道を駆け抜けた宮本。様々な逆風にもめげずに結果を出し、自身を成長させてくれた指揮官に、あの時代に出会えて良かったと感謝の気持ちでいっぱいだ。

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■宮本恒靖 / Tsuneyasu Miyamoto

 1977年2月7日生まれ、大阪府出身。95年にガンバ大阪ユースからトップ昇格を果たし、1年目から出場機会を獲得。97年にはU-20日本代表主将としてワールドユースに出場する。シドニー五輪代表でもDF陣の中核を担うと、2000年にA代表デビュー。02年日韓W杯前は控えの立場だったが、ベルギー戦で森岡隆三が負傷したため緊急出場。鼻骨骨折した顔面を保護するフェイスガード姿が話題となり、「バットマン」と呼ばれて人気を博した。日韓W杯後に就任したジーコ監督からも信頼され、06年ドイツW杯にも出場。11年に現役引退後は、日本人の元プロサッカー選手で初めてFIFAマスターを取得した。古巣G大阪のトップチーム監督などを経て、現在は日本サッカー協会理事を務める。

(佐藤 俊 / Shun Sato)

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佐藤 俊

1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、大学駅伝などの陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)、『学ぶ人 宮本恒靖』(文藝春秋)、『越境フットボーラー』(角川書店)、『箱根奪取』(集英社)など著書多数。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。

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