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鉄拳制裁におびえて25歳で引退…元バレー代表・益子直美「怒らない指導」で続ける日本スポーツ界改革

「監督が怒ってはいけない大会」の活動をスタートさせた【写真:井上学】
「監督が怒ってはいけない大会」の活動をスタートさせた【写真:井上学】

唯一無二の技も「言われた通り」

 当時の益子氏は、実業団の男子でもなかったジャンプサーブとバックアタックを繰り出していた。それがハマり、2年時には八王子実践を春高バレー準決勝で破り、準優勝に貢献した。

「それも、自分でトスを上げてスパイクを打つ練習を見ていたコーチから、『アタックラインを踏むな』『エンドラインの外から打て』と言われたことがきっかけです。背筋が強くてできちゃったから、試合でもやっていました。とにかく言われた通りにしていました」

 3年の秋には、全日本(日本代表)に初選出。青天のへきれきだった。

「自信なんて全くない。ただ、『怖い場所に行かされる』という感覚でした」

 卒業後、イトーヨーカドーに入社。「打倒・日立」を掲げて猛練習を重ねた。厳しい指導は続くも、時期によっては休暇をもらえた。1989年のワールドカップに出場し、ベスト6受賞。90年には絶対王者だった日立を破り、念願の日本リーグ初優勝を飾った。23歳。その時点に引退を申し出た。

「試合が怖くて、『レギュラーになりたくない』。コートに立っても『私にトスが上がってこなければいい』と本気で思っていました。五輪に出たいという思いもなく、ただ、無事に引退することだけが目標でした」

 引き止められ、翌91年は主将を務めた。世間からは「美貌と実力を兼ね備えたヒロイン」として持てはやされたが、五輪出場を果たすことなく92年3月、25歳で引退した。

「国際大会に出ると、韓国の選手は日本と同じような雰囲気に感じましたが、アメリカは土壇場でもみんなが『私にトスを上げて!』とやる気に満ちていました。まだ、日本の方が強かったのに、そのガッツと自信には怖さを感じました」

 益子氏はそうしたマインドになれないまま、コートを去った。

「清々しかったです。『ああ、もうこれで怒られなくて済む』と思って。指導者になることは一切、考えませんでした」

 引退後、スポーツキャスターやタレントとして歩み始めた。人前に出ることは得意ではなかったが、トーク教室でスキルを磨き、バラエティー番組での被り物もいとわなかった。

「私はバレー界を離れれば無名だと自覚し、オリンピアンにはさせられないようなこともやりました」

 長い月日を経た2015年、益子氏は協力者とともに「監督が怒ってはいけない大会」の活動をスタートさせた。きっかけは、12年に起きた事件。大阪の高校でバスケットボール部のキャプテンが、監督からの体罰を苦に自ら命を絶ったのだ。

「そのニュースを知り、『私も紙一重だったのでは』と思いました。追い詰められ、バレーボールから離れていく子もたくさんいましたし。『どうにかしたい』と思って活動を始めた当初は、『怒らなくて勝てるのか』『強くなんてなれない』という批判も多くありました」

 同年10月には、淑徳大女子バレー部の監督に就任。23年ぶりの現場復帰となった。「怒らない指導」で、6部リーグのチームを2年で3部リーグに浮上させた。だが、その先からは求めるものが高くなり、自身が苦しめられてきた「怒る指導」になっていた。

「練習態度についてならともかく、ミスをしたことに怒っていました。『監督が怒ってはいけない大会』をやりながらの矛盾です。『子どもは怒っちゃダメ。高校、大学生ぐらいは怒ってもいい』と線引きしながら揺れていました。結局、大学生も私が怒った途端に主体性がなくなりました。昔の私と一緒です」

 その罪悪感から精神的に追い詰められ、心房細動を患った。パニック障害も発症し、運転中にアクアライン内で体調を崩したこともあった。

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