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松井秀喜に助けを求めた日本人 アフリカ野球衰退の危機、職を捨てニューヨークに飛んだ

松井秀喜氏(左奥)も協力するアフリカ55甲子園プロジェクトの記者会見(友成さんは前列左)【写真:J-ABS提供】
松井秀喜氏(左奥)も協力するアフリカ55甲子園プロジェクトの記者会見(友成さんは前列左)【写真:J-ABS提供】

アフリカの子どもにロールモデルが必要、人生を懸けた松井秀喜氏へのアプローチ

 2003年にNPO法人「アフリカ野球友の会」を創設。2019年に「一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興財団(J-ABS)」となった。主軸事業として、アフリカ54か国と1つの地域を対象に人づくり野球教育を広める「アフリカ55甲子園プロジェクト」をスタート。日本人が野球を通じて学ぶことを教本化し、コーチ向けのセミナーを実施した。

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「教える項目は55個あります。でも、教わった結果、『子どもたちはどうなるの?』というロールモデルが必要でした。スポーツマンシップに溢れた偉大な日本人野球選手は誰なのか。それを考えた時、本家甲子園のヒーローだったこの人しかいないと思いました」

 55の国と地域、55項目。背番号55をつけた松井秀喜氏だった。1992年、夏の甲子園では5打席連続敬遠の末に敗戦。試合後に語った「相手の作戦なので自分は何も言えません。弱いから負けた」の言葉に友成さんは感銘を受けた。

「スポーツマンシップに溢れるこんな若者がいるんだと感動しました。その後に巨人で大活躍。ヤンキースの4番を打ち、ワールドシリーズでMVP。この上ないロールモデルです。彼が18歳の時に持っていた思考をアフリカ人に知ってほしいと思ったんです。プロジェクトは若者たちが対象。『君たちと同じ年代でこう考えていた人が、その後こうなったんだよ』というロールモデルになります」

 松井氏にプロジェクトの力になってほしい。しかし、直接アプローチできる人脈がない。そこでまずは松井氏に関する本を読み込んだ。図書館にも通い、気づけば28冊を読破。浮かび上がったルートの一つが、松井氏を長年そばで支えた近い関係者だった。

 友成さんは「松井さんに繋いでくださいと言う時、果たして覚悟を示せるのか」と自問。「チャンスは1回しかない」。本気度を伝えるため、2020年にJICAを退職した。先方にアポをとり、夢や事業を熱弁。「僕は全てを捨ててこれに懸けます」。熱意が伝わり、2021年に松井氏に繋いでもらった。

「本当はニューヨークまで行きたかったのですが、コロナ禍でZoomになりました。そこで練りに練ったプレゼンをさせてもらったら、松井さんが『壮大な夢ですね』と言ってくれた。しかも『実はアフリカに行ってみたいと思っていたんですよ』と。3か月後にもニューヨークで時間を取ってくださいました」

 対面は3時間。松井氏に「J-ABS エグゼクティブ・ドリームパートナー」に就任してもらうことができた。2021年12月の第9回タンザニア甲子園大会では、ゴジラから現地の子どもたちへ激励のメッセージ。現役時代の写真パネルを置いたり、指導用の動画を撮ってもらったり。アフリカの野球振興に力を貸してもらっている。

 昨年、アフリカ55甲子園プロジェクトを5か国で実施。指導者にセミナーを開き、55項目を伝えた。現在はアフリカ野球連盟とも連携して活動し、25か年計画を立てている。

「ベースボーラーシップ(「人づくり野球教育」の英語表現)がしっかりと浸透した国をつくる。私は58歳なので、これから25年もやれるわけがありません。一番大事なのは『人』を残すこと。それを最初の10年間でやります。我々がいなくなったとしても、アフリカ野球連盟が各国の連盟と一緒になって、この理念を広げていくことを描いています」

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