なぜ「日本陸上界の父」はそう呼ばれるのか 今も各地に「織田幹雄」の名…実は「三段跳び」の名付け親でもあった
「THE ANSWER 陸上PLUS」は陸上競技の歴史・変遷を掘り下げ、その価値を問い直す連載「荻島弘一の陸上クロニクル」を展開。スポーツ新聞社で五輪を長年取材してきたスポーツライター・荻島弘一氏が執筆する。第8回は「『日本陸上界の父』織田幹雄の功績」をひも解く。

「THE ANSWER 陸上PLUS|COLUMN」 荻島弘一の陸上クロニクルVol.8
「THE ANSWER 陸上PLUS」は陸上競技の歴史・変遷を掘り下げ、その価値を問い直す連載「荻島弘一の陸上クロニクル」を展開。スポーツ新聞社で五輪を長年取材してきたスポーツライター・荻島弘一氏が執筆する。第8回は「『日本陸上界の父』織田幹雄の功績」をひも解く。
【注目】女性のバストは「激しく揺れている」 競技パフォーマンスに影響する可能性も…研究員が語る運動時の衝撃の大きさ(W-ANS ACADEMYへ)
◇ ◇ ◇
生まれ変わる前の旧国立競技場。1964年東京五輪のメイン会場となり、陸上やサッカー、ラグビーなど多くの競技で数々のドラマが繰り広げられた。この「聖地」の第4コーナー付近に立っていたのが「織田ポール」。長さ15メートル21センチは、織田幹雄が五輪金メダルを獲得した1928年アムステルダム大会男子三段跳びの優勝記録だ。
織田幹雄が「日本陸上界の父」と呼ばれるのは、日本人第1号の金メダリストというだけが理由ではない。その後、指導者など裏方として日本陸上界の発展に尽くしてきたからだ。
金メダリストとなった織田は、その後も競技の研究に没頭。早大でチームメートだった南部忠平らと切磋琢磨しながら、小柄な日本選手にも合った効率的なジャンプを追求した。1932年ロサンゼルス大会で南部が、1936年ベルリン大会で田嶋直人が同種目で優勝。三段跳びは日本の「お家芸」とも言われた。
1931年に大学を卒業した織田は朝日新聞社に入社し、競技を続けながら運動部記者としても活躍した。同年には三段跳びで15メートル58の世界記録を樹立。コーチ兼任で出場した1932年ロス五輪では日本選手団の旗手も務めたがケガで満足な結果は残せず、1934年を最後に一線を退いた。
引退後も記者として海外取材などで見識を深め、指導者としても活躍。1959年に東京五輪を目指す日本陸連の強化委員長に就任すると、海外から優秀なコーチを招き、近代的なトレーニング法を導入した。陸上総監督として東京五輪で成果をあげると、その後も日本陸連や世界陸連の要職を歴任した。
![[THE ANSWER] スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト](https://the-ans.jp/wp-content/themes/the-answer-pc-v2/common/img/logo_c1.png)








