[THE ANSWER] スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト

サッカー日本代表戦とテレビ中継 「結果しか伝わらない」時代を支えた選手の使命感

コパ・アメリカ(南米選手権)で9年半ぶりに日本代表戦がテレビ中継されなかった。だが海外での日本代表戦中継の歴史は、まだそれほど長くはない。Jリーグが創設される前は、テレビ中継どころか、報道陣不在の遠征も珍しくなかった。

"低迷期”を乗り越え日本代表は1998年のフランスW杯に初出場【写真:Getty Images】
"低迷期”を乗り越え日本代表は1998年のフランスW杯に初出場【写真:Getty Images】

1993年のJリーグ創設前は、報道陣不在の遠征も珍しくなかった

「とにかく私たちの時代は、とことん結果にこだわりました。それしか伝わらなかったですから」――八重樫茂生(元日本代表主将)

【注目】育成とその先の未来へ 野球少年・少女、保護者や指導者が知りたい現場の今を発信、野球育成解決サイト「First Pitch」はこちら

 コパ・アメリカ(南米選手権)で9年半ぶりに日本代表戦がテレビ中継されなかった。だが海外での日本代表戦中継の歴史は、まだそれほど長くはない。Jリーグが創設される前は、テレビ中継どころか、報道陣不在の遠征も珍しくなかった。

 例えば、1992年に中国で開催されたダイナスティカップ(現E-1サッカー選手権)で、ハンス・オフト監督が指揮する日本は大方の予想を覆して初優勝を飾った。それを機に低迷の歴史にピリオドを打つことになるのだが、この時同行した取材陣は2人だったそうだ。

 さらに55年前の東京五輪まで遡ると、サッカーは最もチケットが入手しやすい競技だった。

 日本は初戦で優勝候補のアルゼンチンと対戦し、3-2で逆転勝利を飾る大番狂わせを演じている。しかし試合が行われた駒沢陸上競技場では、動員された子供たちがスタンドを楽しく駆け巡る光景を、ピッチ上の選手たちが確認できたという。

 まだ日本には、アマチュアのリーグ戦もなく、ノックアウト方式のカップ戦のみだったので、日本代表は予算さえやり繰りできれば、長期遠征が可能だった。国際Aマッチを組めるのはアジア内だけで、欧州や南米に出かければ、代表同士ではなくクラブチームと親善試合を重ねた。そんな状態だから、アウェーの試合は翌日の新聞にスコアが載れば良いほうだった。

 八重樫茂生は、そういうアマチュア時代に、ただ1人だけ3度も五輪に出場した名手だった。1956年、早稲田大在学中にメルボルン大会に初出場し、64年東京大会でベスト8、68年メキシコ大会では銅メダルを獲得している。

 最初の五輪に出場した頃は、完全にマイナーだったサッカーが、東京大会で少しだけ人気に火がつき、メキシコ大会ではブームに変わる。それを体感してきた。

1 2

加部 究

1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近、選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

W-ANS ACADEMY
ポカリスエット ゼリー|ポカリスエット公式サイト|大塚製薬
DAZN
スマートコーチは、専門コーチとネットでつながり、動画の送りあいで上達を目指す新しい形のオンラインレッスンプラットフォーム
THE ANSWER的「国際女性ウィーク」
UNIVAS
N-FADP
#青春のアザーカット
One Rugby関連記事へ
THE ANSWER 取材記者・WEBアシスタント募集