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マラソン挑戦は「世界でメダルを獲るため」 不屈のランナー尾方剛、世界陸上3位に生きた“悔しさ”

2003年福岡国際での悔しさが「すごく生きた」

 だが尾方は、それでもめげることなく、翌2000年4月にロッテルダムマラソンに出走し、2時間11分43秒で走ることができた。

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「なんとかマラソン選手としてやっていけるかなという手応えを得たレースでした」

 2002年の福岡国際マラソンで日本人2位になり、尾方は03年パリ世界陸上のマラソン代表の座を手にした。だが初の世界の舞台で12位に終わり、経験不足を痛感して帰国。それから3か月後、04年アテネ五輪の選考会レースでもあった福岡国際マラソンに出走したが、尾方は日本人3位、総合6位に終わり、出場権を獲得できなかった。

「パリから福岡まで準備期間が3か月しかなかったので、福岡では手堅く勝とうと思っていたんです。誰かがスパートしたらそこに乗っかって他力本願ではないですけど、それで勝てればいいと思っていた。でも、誰かに合わせて走ろうという気持ちが強すぎて、逆にそこで消耗してしまって、勝負どころで勝負し切れなかった」

 尾方にとって、それは苦い経験として体に刻まれた。そして翌年の福岡国際マラソンでは絶対に勝って、05年ヘルシンキ世界陸上に出なければと思い練習に集中した。その結果、04年福岡国際マラソンで優勝し、ヘルシンキ大会への切符を手にする。

「福岡で勝って、ヘルシンキでメダルを獲るというのは、メディアのインタビューで答えていました。そこまで強く、ハッキリと宣言し、実際にヘルシンキで銅メダルを獲得できたのは、03年の福岡国際があったからです。中途半端なレースをして、自分の中ですごくモヤモヤして腹立たしい結果に終わった。その悔しさがすごく生きたんだと思います」

 尾方は有言実行し、ヘルシンキ世界陸上で銅メダルを獲得、マラソン男子団体戦では金メダルを獲得した。

 尾方のマラソン人生を振り返ってみると、福岡国際マラソンが節目、節目で大きなレースになっているのが良く分かる。年末の12月に開催されるレースだが、タイムを狙うのであれば冬の1月から3月にかけて開催されるレースを狙うほうが賢明だ。

 なぜ、尾方は福岡国際に固執するようにこのレースに出続けたのだろうか。

「ニューイヤー駅伝が1月にあるじゃないですか。僕は、その駅伝後にマラソンの調整をして合わせていくのが、ちょっときついなって思っていたんです。びわ湖や東京マラソンになると、ニューイヤー駅伝に出た後、もう一度、作り直さないといけない。リセットするのが自分には合わないですし、基本的に年を越してから走りたくないのもありました(苦笑)。マラソンは年内で終わらせたかったというのと、福岡国際との相性が良かったのも大きかったです」

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佐藤 俊

1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、大学駅伝などの陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)、『学ぶ人 宮本恒靖』(文藝春秋)、『越境フットボーラー』(角川書店)、『箱根奪取』(集英社)など著書多数。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。

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