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中田英寿と日本代表で初共演「スーパーマンが来た」 若き日の稲本潤一が受けた衝撃

代表での中田英寿のプレーを見て「リスペクトし過ぎるぐらいしていた」と語る稲本潤一【写真:南葛SC/松岡健三郎】
代表での中田英寿のプレーを見て「リスペクトし過ぎるぐらいしていた」と語る稲本潤一【写真:南葛SC/松岡健三郎】

カザフスタンでの五輪予選で確信「ヒデさん中心のチームになっていく」

 日本代表のチーム作りは、ワールドユースからシドニー五輪、アジアカップ優勝という流れのなかで主軸が明確になり、完成されていった。そのなかでトルシエが一目置いていたのは、イタリア・セリエAでプレーしていた中田英寿だった。中田はシドニー五輪の最終予選の時に招集されたが、ホテルでは他の選手が相部屋なところを、1人部屋が与えられ、またメディアに対しても黙して語らずの姿勢を貫いていたので、稲本は気難しい人なのかなと思っていた。

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「自分も最初、どんな人なんやろって様子見しながら接していたんですけど、メディアの人に対する態度と僕らに対する態度はまったく違いましたね。ヒデさんから僕らに降りてくることはあまりなかったですけど、僕らが行けば気軽に対応してくれて、めちゃ優しかったです」

 中田は、肩書だけではなく、プレーでも稲本たちとの差を見せつけた。

「カザフスタンでの五輪の最終予選の試合にヒデさんが来て、いきなりゴールを決めたんです。もう、すごい衝撃で、スーパーマンが来たみたいな感じやった。凄すぎるわと思って、もうリスペクトし過ぎるぐらいしていました。これから五輪も日本代表もヒデさん中心のチームになっていくんやろなって思っていたし、みんなもそう思ったと思います」

 中田を中心に日本代表のチーム作りが進行していくなか、稲本もボランチのポジションをほぼ手中に収め、確固たるものにしつつあった。日本代表でレギュラーを取ることにこだわり、執着したのには理由があった。

 日韓W杯の前年、稲本は当時の指揮官だったアーセン・ベンゲルに声をかけられ、プレミアリーグの名門アーセナルへの移籍が実現した。だが、世界トップレベルの選手がひしめくチームにおいてなかなか出番が与えられず、シーズン後半は優勝争いをしていたこともあり、公式戦での出場はゼロに終わった。

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佐藤 俊

1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、大学駅伝などの陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)、『学ぶ人 宮本恒靖』(文藝春秋)、『越境フットボーラー』(角川書店)、『箱根奪取』(集英社)など著書多数。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。

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