「アホか!」とぼろくそに怒られた 平尾誠二の「熱くて、泥臭い」華麗じゃない素顔
情熱プラス最先端の科学技術で世界に挑んだ平尾氏
では指導者としての平尾氏については、元木氏はどう見ていたのだろうか。
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最初の“師弟関係”は日本代表だった。平尾氏が実質上の現役引退となった1995年度末に、日本ラグビー協会が代表監督就任をオファー。平尾氏も元木氏とともに出場した95年ワールドカップで、日本代表はオールブラックスに17-145という歴史的な惨敗を喫した。この危機的な状況の中で、同協会首脳から日本代表の再建とラグビー人気の回復という難題を託された平尾氏は、就任会見で「日本ラグビーの百年の計という思いでお受けしました」と歴史的な大変革を担う思いを語った。
96年に発足した平尾ジャパンには、まさに平尾氏の思いやこだわりが盛り込まれていた
「指導者としての平尾さんは、まず厳しかった。練習がしんどかった。でも、これは土台作りからやろうと考えていたからだと思います。もう小手先だけでワールドカップで勝てるような時代ではなかった。もし本気で勝とうと考えたら、いままで以上のタフさも必要になってくる。まずそこをチームに植え付けようとしていましたね」
このハードワークが“熱”なら、“知”の部分はデータを駆使した強化だ。
「あの当時のスポーツ界では、いまなら当たり前のスカウティングは、そんなにやってなかったと思います。そこに力を入れたのが平尾ジャパンだった。例えばゲーム分析でも、いまなら分析ソフトがありますけど、当時はなかった。僕が明大のときも、メンバーで一緒に試合のビデオを流しながら見て、ああだこうだと話し合っていた。
でも平尾ジャパンでは、分析担当者がVHSのビデオとビデオをつなぎ合わせたり、よく徹夜で分析用の映像を作っていましたよ。相手チームに関しても、具体的にスクラムをどう組んでいるかとか、BKのディフェンスラインはどう機能しているかなど、非常に細かい部分まで分析していた。いまほど詳しくはないけど、タックル成功率、タックル回数などもデータ化していましたね。そのデータで目標を具体的に作れたり、自分にはすごく役立ちましたね」
CTBとしてグラウンドに立ち、指導者としても共に戦ってきた中で、平尾氏の思考や情熱が、血となり肉となって元木氏は日本を代表する選手に育っていった。そんな中で、いまでも覚えている故人からの言葉がある。
「まだ神戸製鋼入りを決める前でしたけど、『世界を見ろよ』と言われたんです。内心では、海外留学か神戸製鋼のいずれかだと思っていた。だから平尾さんのような人から、そう言われたことで、なんだか行けるんじゃないかと嬉しかったのを覚えています」
元木氏は、国内チームで海外に目を向けているのは神戸製鋼だけだと確信していた。当時は前例の少なかった海外留学は実現しなかったが、世界を意識してラグビーに取り組む平尾氏のもとでプレーすることに迷いはなかった。