[THE ANSWER] スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト

日の丸飛行隊・笠谷幸生さん死去 流行らせた「笠谷ごっこ」、寡黙なスーパーヒーローの功績と後悔

本当に欲しかったのは90メートル級の金メダル

 ジャンプ競技は冬季五輪の第1回の1928年大会から行われているが、当初はラージヒル1種目だけ。70メートル級は64年からで、札幌は3大会目だった。「90メートルで勝たないと、ダメなんだ」。70メートル級が「おまけ」とまでは言わないが、本当に欲しかったのは90メートル級の金メダルだった。素人にとっては同じようにも思えるが、ジャンプを突き詰めるとラージヒルなのかもしれない。

【注目】育成とその先の未来へ 野球少年・少女、保護者や指導者が知りたい現場の今を発信、野球育成解決サイト「First Pitch」はこちら

 笠谷さんは根っからのジャンパーだった。「より遠くに」「より美しく」飛ぶのが、この競技。「世界一美しい」飛型と言われながらも、常に「世界一遠くに」と考えていたに違いない。だからこそ、70メートル級の金メダルよりも「本番」の90メートル級で金に届かなったことを悔やんでいたのだろう。

 昨年10月に札幌が30年冬季五輪招致を断念した時、「残念、でも無理して(開催)することもない」という淡々としたコメントが報じられた。もし開催されれば、その偉業が再び注目されただろうが、そんなことにも頓着しないのも笠谷さんらしい。

 日本選手の五輪表彰台独占は過去6回。夏季は競泳と体操の「お家芸」で計5回あるものの、冬季は「日の丸飛行隊」が唯一。「もう、みんな忘れているよ」と自嘲気味に話していたが、記憶にも、記録にも残る偉業だった。72年札幌五輪で栄光とともに悔しさを味わっていた「スーパーヒーロー」笠谷さん。今ごろは、先に天国にいった青地さん、金野さんとともに元祖「日の丸飛行隊」として思う存分飛んでいるに違いない。

(荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima)

1 2

荻島 弘一

1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。

W-ANS ACADEMY
ポカリスエット ゼリー|ポカリスエット公式サイト|大塚製薬
DAZN
スマートコーチは、専門コーチとネットでつながり、動画の送りあいで上達を目指す新しい形のオンラインレッスンプラットフォーム
THE ANSWER的「国際女性ウィーク」
UNIVAS
N-FADP
#青春のアザーカット
One Rugby関連記事へ
THE ANSWER 取材記者・WEBアシスタント募集