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松田直樹、日韓W杯の残像 「ビビりまくっていた」男を奮起させた、自室に貼った写真

「サンドニの悲劇」の屈辱から逃げなかった

 松田は、反骨の人だった。

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 2001年3月、サンドニでのフランス戦、松田はフラットスリーの真ん中を任され、主将の腕章を巻いてプレーしている。気負いもあったのか、序盤でペナルティーエリアに侵入してきたロベール・ピレスを倒し、PKを与えて先制点を献上してしまった。

「まだ試合は始まったばかり」

 松田はどうにか心を整えて、試合と向き合った。しかし世界最高のMFと言われたジネディーヌ・ジダンに、プライドを粉々に砕かれた。近づいては簡単にいなされ、間合いを取ったら反転して前向きで猛然と襲いかかられる。手も足も出なかった。

「生まれて初めて、ピッチから消えたいと思いました。“なんでこんな時間が残っているの?”って。“監督、俺を代えてよ!”って感じでした」

 松田は自嘲気味に話していた。結果は0-5の惨敗。今も「サンドニの悲劇」として記憶に残る一戦だ。

 しかし、松田は屈辱から逃げなかった。日韓W杯まで、以前に増して死に物狂いで肉体的に追い込むようになったという。「サンドニの悲劇」の写真を自室に貼り、負けた悔しさをくすぶらせ、ストイックにトレーニングに打ち込んだ。

 その反骨が日韓W杯、ベスト16につながった。

「俺は口だけは嫌だった。一番になるには、きつい練習をしないと」

 松田は確信を込めて言っていた。

「(2002年の)日韓ワールドカップまではとにかく体を追い込んだよ。いつ肉離れしてもおかしくないくらいまでやるんだけど、それがきついとは感じなかった。マゾのようなもんだけど、誰かに負けるより、自分の体をいじめて苦しむほうがよっぽどマシだった」

 グループリーグ初戦のベルギー戦は、一つのターニングポイントになっている。フラットスリーの中央を託されていた森岡隆三が負傷し、宮本恒靖に交代。宮本、中田浩二の2人の走力では、裏のスペースに現実的に対処できない。そこで右の一角を担っていた松田はラインを下げて守ることをチームメートに提案した。これが、ロシア、チュニジア戦での連勝につながった。

 松田はフラットスリーを含めて、監督に対し必ずしも従順ではなかった。トルシエ監督は極端なラインの上げ方を要求したが、混乱は明らかで、彼は大会前からチームメートと話し、戦う相手や状況次第で使い分けた。その点、実に合理的な考え方の持ち主だった。知恵と大胆さで、監督の指令をピッチで適応させたのである。

 それは究極的な個人主義だったと言える。流されない、命じられない。自ら決断を下すことができた。

「試合に出さないとぶっ殺すというオーラがあった」

 トルシエは松田についてそう語っていた。

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小宮 良之

1972年生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。トリノ五輪、ドイツW杯を現地取材後、2006年から日本に拠点を移す。アスリートと心を通わすインタビューに定評があり、『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など多くの著書がある。2018年に『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家としてもデビュー。少年少女の熱い生き方を描き、重松清氏の賞賛を受けた。2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を上梓。

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