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宗像サニックス「永遠のノーサイド」 28年の歴史に刻まれた“非エリート集団”の団結力

すべての試合を終えて挨拶に立った松園正隆監督に、両チームのファンが惜しみない拍手を送った【写真:吉田宏】
すべての試合を終えて挨拶に立った松園正隆監督に、両チームのファンが惜しみない拍手を送った【写真:吉田宏】

教員試験に失敗、1年限定で加入した宗像で受けた衝撃

 流れ者たちをブルースに迎え入れた松園監督も、予想していなかった道しるべを辿って、チームで最後のタクトを握った。多くの選手とは異なり、日本体育大から新卒でサニックスに入社。今はスポーツ文化振興ラグビー部次長として働く生え抜き監督だが、これほどの年月をチームで過ごすとは考えていなかった。

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「今年でサニックスにお世話になって27年目になります。人生の半分以上はここにいますが、チームに入ったのは本当にたまたまです。大学3年の時に膝の前十字靭帯を怪我して、4年の時はほぼリハビリと教育実習でした。故郷の佐賀県で体育教師を目指していましたから。大学選手権で復帰しましたが、ラグビーはこれで最後と決めていました。でも、教員採用試験がダメで、どうしようかと悩んでいる時に、母校・佐賀工の監督だった小城博先生に相談したのがきっかけでした」

 教員試験の失敗の後からの仕事探しは、容易ではなかった。複数の企業チームからは、1年待てば翌年の採用枠で入れると声もかけられたが、即採用で誘ってくれたサニックスを選んだ。歴史の浅い新興チームだったが、故郷の佐賀県からも遠くはないことに加えて、現役ニュージーランド代表2人を獲得していたことが選択を後押しした。

「今なら珍しくないが、あの当時の日本のチームにオールブラックスの一線級の選手がいるなんてなかった。一緒にラグビーができるし、これから急に強くしていこうというチームが面白いと感じました。教員希望のため、在籍は単年と決めていましたから、ここでやろうと決めたんです」

 興味本位という気持ちもあったが、オールブラックスでの歴代トップクラスのSH(スクラムハーフ)と評価されるグレアム・バショップ、そして今や日本代表ヘッドコーチとして辣腕を振るうジェイミー・ジョセフ(NO8=ナンバーエイト)の存在は、当時のアマチュアスポーツという環境にどっぷりと浸かっていた日本のラグビー選手には衝撃的だった。実際に一緒にプレーしてみると、世界最強チームの、そして当時の日本にはいないプロラグビー選手としての、たとえ練習試合であっても持ち続ける勝つことへの強い拘り、1つのプレーに注ぐ執念は、日本人だけの土壌では経験できないものだった。

 1年後には教員に再挑戦しようと決めていた松園監督も、「2人が入ってきて、このチームを勢いづけさせてくれた。ラグビーチームには必要なチームカルチャーというものも作ってくれた。彼らからラグビーに対する考えとか、グラウンド外のこととかをたくさん教えてもらって、もっとラグビーを知りたい、もっとラグビーをしたいという気持ちになった」と当時を振り返る。そんな思いが「教員なら30歳でもなれる」と、1年ずつラグビー選手としての人生を伸ばして、人生の半分以上を宗像で過ごすことになった。

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吉田 宏

サンケイスポーツ紙で1995年からラグビー担当となり、担当記者1人の時代も含めて20年以上に渡り365日欠かさずラグビー情報を掲載し続けた。1996年アトランタ五輪でのサッカー日本代表のブラジル撃破と2015年ラグビーW杯の南アフリカ戦勝利という、歴史に残る番狂わせ2試合を現場記者として取材。2019年4月から、フリーランスのラグビーライターとして取材を続けている。長い担当記者として培った人脈や情報網を生かし、向井昭吾、ジョン・カーワン、エディー・ジョーンズら歴代の日本代表指導者人事などをスクープ。ラグビーW杯は1999、2003、07、11、15、19、23年と7大会連続で取材。

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