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日本代表と外国人監督 「なんでも聞いてくれ」の先で起きた24年前の解任劇

「分からなかったら、なんでも聞いてくれ。ファルカンはくどいほど繰り返していました」――アデマール・マリーニョ 外国人監督がコミュニケーション不足を理由に解任されたのは、今回のバヒド・ハリルホジッチが初めてではない。1994年、「ドーハの悲劇」(※93年アメリカW杯アジア最終予選、イラクとの最終戦で土壇場で2-2に追いつかれ出場権を逃す)の後で日本代表監督を引き継いだファルカンが解任された際にも、同じ理由が添えられた。

ヴァヒド・ハリルホジッチ【写真:Getty Images】
ヴァヒド・ハリルホジッチ【写真:Getty Images】

ハリル以前にも電撃解任された監督が…短命に終わったファルカンジャパン

「分からなかったら、なんでも聞いてくれ。ファルカンはくどいほど繰り返していました」――アデマール・マリーニョ

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 外国人監督がコミュニケーション不足を理由に解任されたのは、今回のバヒド・ハリルホジッチが初めてではない。1994年、「ドーハの悲劇」(※93年アメリカW杯アジア最終予選、イラクとの最終戦で土壇場で2-2に追いつかれ出場権を逃す)の後で日本代表監督を引き継いだファルカンが解任された際にも、同じ理由が添えられた。

「日本サッカーの父」と尊敬されたデットマール・クラマーでさえも、時には言葉が強過ぎることがあり、コーチ兼通訳の岡野俊一郎が和らげることで理解、融和を深めていった。フィリップ・トルシエの高圧的な姿勢も、今ならパワハラと非難されたかもしれない。

 ファルカン時代も、確かに一部の選手たちは隔靴掻痒(かっかそうよう)の感が拭えなかった。特に「最も数多く質問をした」と語る遠藤雅大などは、サイドバックに転向したばかりだったこともあり、他のポジションの選手たちとの連携面での確認を詰めたかったが、明解な答えを引き出すことはできなかった。

 だがファルカンが、選手たちとのコミュニケーションを拒んだ形跡はない。当初代表チームには、通訳が一人しかいなかった。これでは無理が生じたので、94年秋のアジア大会を前にブラジル時代から旧知で、JSL(日本サッカーリーグ)でも活躍したアデマール・マリーニョが、二人目の通訳として着任した。

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加部 究

1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近、選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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