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1964年東京五輪の料理人・鈴木勇さん 選手村の料理は「1日として同じものなかった」

渋谷で「オリンピックの料理人の見た東京大会1964」が開催中【写真:編集部】
渋谷で「オリンピックの料理人の見た東京大会1964」が開催中【写真:編集部】

休憩中にカメラで撮影 ベストショットは…

 そんな鈴木さんにとって、唯一の息抜きが写真撮影だった。中学卒業後から勤務していた横浜市の老舗洋食店「センターグリル」の社長から、「記憶は薄れるから記録で残しておきなさい」と言われ、カメラの購入を勧められた。鈴木さんは給料3、4か月分を前借りし、当時6、7万円の高級カメラを買って携行した。

 カメラは趣味ではなく、全くの初心者だった。鈴木さんは、休憩時間に車を借りて選手村に繰り出した。「金持ちのコックさんがいて、その人がホンダのスポーツカーを貸してくれた。当時、コックさんで車の免許を持っている人は少なかった」。選手村は移動に自転車が人気になるほど広かった。「食堂サービス手帖の裏にあいさつとか10何種類の言葉があったんです。それをアンチョコにして、フォトプリーズとかサインプリーズとか言うと、喜んでやってくれた」と懐かしそうに思い返した。

 印象に残っているベストショットは、金メダリストの撮影だ。自信があふれ、表情が違った。「メダル取った人は誇らしげ。ゴールドメダリストって感じでね」。警備は自衛隊がしており、撮影にもうるさくなかったという。特にメダリストは閉会式に出席するため、帰国せずに残っていた。「選手村を歩いていると、どこの国の選手でも和気あいあいと話し合っているんですよ。外国の選手同士でですよ。USAの選手とCCCP、ソ連の選手が、エーッって思うくらいに親しいんですよ。当時冷戦だよ。スポーツっていいんだな、オリンピックって素晴らしいなって思いました」と実感を込めた。

 撮影枚数はトータル24枚撮りのフィルム15本分にも及んだ。

 撮影した貴重な写真は現在、「オリンピックの料理人の見た東京大会1964」(東京・白根記念渋谷区郷土博物館・文学館、10月10日まで)として展示されている。選手村食堂の模型やメニューを記した手書きのノート、厨房や食堂内部の写真などが、64年五輪の資料とともに公開されている。来館者にはピンバッジも配布される。

 新型コロナウイルス禍で、不要不急の外出の自粛求められる中での東京五輪。コロナがなければ、違う大会になっていたと悔しそうな鈴木さんだが、「いろんな国の人があんなにフリーに付き合い、話し合えるのがオリンピックの魅力」と話し、“平和の祭典”の理念に共感していた。

(THE ANSWER編集部)

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