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プロ2年目で戦力外→8年後「社長」に 元Jリーガー中村亮が米国で見出した第二の人生

日本よりプロの環境に近い米国の大学サッカー

 米国の大学での活動環境は、日本とは比べものにならないほどプロに近い。日本の大学は、多くが3桁の部員数を抱えトップチームの公式戦に出場するのも狭き門だが、米国では20~25人程度の少数精鋭が貫かれている。シーズンごとに契約が更新され、活躍に応じて条件が変わっていく。アマチュアなので金銭の授受はないが、授業料の免除の割合が増え、最高でフル特待生の権利も手にすることができる。さらに評価を高めれば、プロの世界でクラブ間の移籍が行われるように編入が日常茶飯事なので、ステップアップが実現していく。プロ入り前に模擬体験ができるから心構えが備わり、その上で英語も習得できる。

 FC東京で現役生活にピリオドを打った中村は、紆余曲折を経て米国へ渡り英語をマスターし、日本の学生に留学への橋渡しをする会社を起ち上げた。スパイクを脱いで8年間が経過していた。

 今では大半のJアカデミーや多くの有力高校と関係を構築し、サッカーでハイレベルな実力者たちが留学を希望している。トライアウトは米国、国内の両方で定期的に行っており、日本では150人以上の参加者が押しかけることもある。

 例えば今年2月には、星稜高校を卒業して米国に留学した亀谷宇々護が前年の米国3部(3部以上がプロ)のチャンピオンチームだったユニオン・オマハと契約を果たした。亀谷は、まずピマ・コミュニティ・カレッジに入学すると、全米短大選手権のMVPを獲得。この活躍が認められ、NCAAでもトップレベルのネブラスカ大学オマハ校へ編入。パリ・サンジェルマン・アカデミー出身のパトリック・エムボマ・ジュニアと見事な連係を見せ、そのまま地元のプロクラブに加入し10番を背負ってプレーをしている。

「彼は星稜でもエースで活躍していたわけではなく、英語力ゼロの状態で米国に渡り、イチから実績を積み上げていった。誰の力も借りられない環境で人間的に成長できたことが成功の要因だと話しています」(中村)

 中村は手近なところでセカンドキャリアを選択せず「じっくりと遠回りしたからこそ、ここまで来られた」と振り返る。次回からは、そんな中村の半生を辿っていく。(文中敬称略)

【第2回】サッカーへの未練断ち切った2年間 元Jリーガー中村亮、中学教員を経験して訪れた転機

【第3回】サッカーで「劇的に伸びた」英語力 元Jリーガー中村亮が米国で起業を決意した瞬間

【第4回】サッカー以外に武器はあるか? 元Jリーガー社長が語る引退後の進路選択で大切なこと

■中村 亮(なかむら・りょう)

 1981年8月13日生まれ、兵庫県出身。長身サイドバックとして滝川第二高校で頭角を現すと、98年度の全国高校サッカー選手権でベスト4に進出。鹿屋体育大学でも活躍し、2003年には大学選抜の一員としてユニバーシアード大邱大会で優勝した。04年にFC東京へ加入するも、怪我の影響によりJリーグのピッチに一度も立つことなく05年限りで引退。その後は中学校での教員生活などを経て、米国へ語学留学した。自身の現地での経験から起業を思い立ち、現在は株式会社WithYou代表取締役として、日本から米国へのサッカー留学をサポートしている。

(加部 究 / Kiwamu Kabe)

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加部 究

1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近、選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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