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「一つこければ振り出し」 女子サッカー草創期のエース、切り拓いた道と拭えぬ“怖さ”

「私たちは道のないところに道を築いてきました。一つこければそこで振り出し。でもなんとか市民権を得るために……」――野田朱美(元日本女子代表/現ノジマステラ神奈川相模原監督)

なでしこジャパンは今W杯でグループリーグ突破を決めた【写真:Getty Images】
なでしこジャパンは今W杯でグループリーグ突破を決めた【写真:Getty Images】

1984年に中学生で日本女子代表入りの野田朱美、皆無に等しかった周囲の理解

「私たちは道のないところに道を築いてきました。一つこければそこで振り出し。でもなんとか市民権を得るために……」――野田朱美(元日本女子代表/現ノジマステラ神奈川相模原監督)

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 野田朱美は、中学生になるとともに読売ベレーザ(現日テレ・ベレーザ)に加入し、1984年には中学生ながら当時最年少で日本女子代表入りを果たした。

 だが冗談のような話だが、当時の日本女子代表の年間予算はわずかに10万円。1986年のイタリア遠征では、選手個々が18万円を負担することになった。

 男子にもプロがなく、ワールドカップ(W杯)など無縁だった時代である。できたばかりの女子代表の活動への理解は皆無に等しかった。代表が遠征に出る際には監督の鈴木良平が選手たちの通う高校に足を運び説明するが、「そんなものがあるの?」と冷たく突き放されたという。

 野田も自分が真剣に取り組んでいるサッカーについて少しでも理解してほしくて、学校側に練習見学を依頼するが、まったく取り合ってもらえなかった。現在なら日本女子代表の遠征に参加すれば誇らしいこととして積極的に称賛されるはずだが、当時は公休扱いにもならず「受験期の中間、期末と両方のテストを欠席することになった」という。

 それでも高校を卒業後の1990年にはリーグMVP、得点王を獲得し、この年からベレーザの4連覇を牽引。1991年に第1回女子世界選手権(現・女子W杯)に出場し、4年後のスウェーデン大会には「なんとか1勝」を目標に臨んだ。そしてブラジル戦は自らの2ゴールで勝利を飾り、さらにその翌年には主将としてアトランタ五輪への出場も果たした。

「ブラジルを下した時は凄い達成感でした。私たちは道のないところに道を築いてきた。一つこければそこで振り出し。でもなんとか女子サッカーに市民権を得ようというエネルギーがあったから、環境への不満もありませんでした」

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加部 究

1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近、選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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