「早慶明だけがラグビーじゃない」 名将・春口廣、関東学院大を黄金期に導いた雑草魂と反骨心
無名だった箕内拓郎の才能を見抜く
大学の指導者の多くが、選手を減点法で見ていた時代だ。「足は速いが、タックルができない」「体は大きいが動けない」。こんなマイナス採点で選手を評価する監督たちの話を記者として現場で何度も聞いてきたが、春口監督の選手への眼差しは全く違うものだった。
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「あの選手、高校時代は全然注目されなかったけど、凄いスピードを持っている」「あいつは、どんな時も必ず他の選手をサポートして走っている」。新入生がやってくる春先は、こんな話を指揮官が嬉々として話すのを何度も聞いた。とにかく選手の持っている良い部分を見つけ出して、評価する。高校時代は全国大会の経験もない、多くの無名選手たちが春口監督に見出され、磨かれて、大学トップレベルの選手へと成長していった。その象徴的な存在だったのが、後に日本代表NO8(ナンバーエイト)として48キャップを獲得した箕内拓郎だった。
今季まで日野レッドドルフィンズでヘッドコーチを務めた箕内だが、現役時代は関東学院大を主将として初の全国制覇に導き、卒業後はオックスフォード大に留学してケンブリッジ大との伝統の一戦バーシティマッチに出場。その後は日本代表初選出から主将を担い、世界選抜選出、2003、07年ワールドカップ(W杯)で日本初の2大会連続主将という輝かしいキャリアを残してきた。
そんな栄光の足跡とは対照的に、福岡の県立高だった八幡高から関東学院大に入学した当初は、一部の大学指導者しか注目していない存在だった。むしろ、花園常連の佐賀工で190センチクラスの大型LO(ロック)として注目された兄・佳之(日本体育大-NTTドコモ関西)の知名度が上回っていた。関東学院大で初めて会った時の箕内も、無口でひょろっとした色白の少年だった。
春口監督自身も「最初はラインアウト要員かなと思っていた」と回想するが、練習を見るなかで、その秘められた資質を見出した。取材で指揮官が「こんな見た目だけど、とにかく走るんだ。密集に常に入っているんだ」と得意げに話しているのを聞いても、あまり信憑性を感じなかったが、実際のプレーを見ると、まるで影のように楕円球のあるところにそのスリムな長身をかがめるようにして走り続ける箕内の運動量、サポート力に驚かされた。
実は高校時代までにSO(スタンドオフ)でもプレーするなど、ゲームを見渡す視野、判断力にも長けたポテンシャルの持ち主だった。だが、あの寡黙で、何を考えているか分からないような大人しい少年が関東学院以外のいわゆる伝統校に進学していたら、果たして選手として評価、起用されていただろうかと今でも考えてしまう存在でもあった。