部活指導者は「町工場の経営者」と同じ 学生陸上界の名将、駒大・大八木弘明の指導論
学生駅伝の名門・駒大の大八木弘明監督が「THE ANSWER」のインタビューに応じ、自身の指導哲学について語った。1995年にコーチ就任し、2004年から監督となり、通算24個のタイトルを獲得した学生陸上界の名将。東京五輪マラソン代表・中村匠吾など、多くの名ランナーを輩出した63歳はどう選手を導き、幾多の栄光を築いてきたのか。
学生陸上界の名将が語る指導の神髄、55歳を過ぎて変われた理由
学生駅伝の名門・駒大の大八木弘明監督が「THE ANSWER」のインタビューに応じ、自身の指導哲学について語った。1995年にコーチ就任し、2004年から監督となり、通算24個のタイトルを獲得した学生陸上界の名将。東京五輪マラソン代表・中村匠吾など、多くの名ランナーを輩出した63歳はどう選手を導き、幾多の栄光を築いてきたのか。
母校で指導27年目。その過程で時代の変化とともに、もがいてきた。転機は5、6年前。自身の指導スタイルを変えたこと。果たして、その理由とは――。子どもたちが時代とともに変化し、年齢を重ね、自分自身が変わる勇気を持てない。そんな風に悩んでいる多くの学生スポーツ指導者のヒントがあった。(取材・文=THE ANSWER編集部・神原 英彰)
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2021年1月3日、箱根駅伝。
最終10区、大八木監督は運営管理者の車から声を張り上げ、選手を鼓舞した。その執念に後押しされるように、タスキをもらった時点で1位との3分19秒の差をひっくり返し、大逆転で駒大復活を印象づけた。
その裏で、選手を叱咤する指揮官の掛け声が話題になった。ネット上では一部で揶揄する声もあった。ぴっちりと整えられた髪に、メガネの奥から覗く鋭い眼光。どこか、潜在的に“古い指導者”という印象が介在しているのかもしれない。
確かに、大八木監督は自ら「昔は『俺が指導者だ』と選手の上に立っていた」というのも事実。ただ、今は違う。
あの箱根駅伝から3か月後。4月に行った取材で、その指導哲学を語ってくれた。
変わったのは「5、6年前だった」という。昨季の2冠以前、最後にタイトルを獲得した2014年の全日本大学駅伝4連覇の後、チームが低迷期に入った時期と重なる。理由は「今の子たちに昔と同じような接し方では通用しないと、自分の中で分かっていたから」。柔和な福島訛りで語る。
「今の子は一方通行ではダメ。昔は一言、二言くらい言えば聞いてくれたけど、もうそうは行かない。なぜこの練習をするのか、なぜ叱っているのか、きめ細やかに説明する。それが、大きく変わったこと。あとは情熱ですね。4連覇していた時に『ああ、このくらいやっておけば3、4番には入れるな。大丈夫だ』と掴んで、安定志向に入っていた。
弱い時はそりゃあ無我夢中でしたよ。常勝軍団を作るために、がーっと情熱を傾けて選手と本気でやっていた。でも、結果が出るようになると選手が集まり、コーチも来るようになり、練習を任せたり、自分は一言、二言だけ言って走りに行かせて、グラウンドで待っていたり。このまま行ったら、もう一度優勝はできないなと思っていたんです」
1995年にコーチ就任以来、指導に情熱を傾け、駒大を「平成の常勝軍団」とした。獲得した学生駅伝のタイトルは24個。強化のメソッドを己の中で確立した。それを手にできない指導者はごまんといる。しかし、手にすると成功体験に無意識に寄り掛かった。人間、誰しもきっとそうなる。
変わったのは年齢にして55歳過ぎ。大八木監督は「要は指導者が妥協してしまったか、そうでないかですよ」と言う。
一方で、目がくらむほどの実績を学生長距離界で築いてきた。その世界で、大八木弘明の名前を知らない者はいない。立場が絶対的なほど、変わる勇気を持つのは容易ではない。しかし、自分を変えることについて「怖さなんて全然なかったですよ」と首を横に振る。
「自分で(原因が)分かっていたから。情熱を持って本気で接していれば選手は感じてくれるから、生き生きする。返ってくる言葉一つとっても勢いが違う。監督が本気だから俺らも本気にならないと、という空気はすごく感じた。すべてが行動でしょうね。そこに選手たちは飢えていたのかな」