「赤鬼」と呼ばれたトルシエの素顔 通訳が語る緻密さ、訳しながら“鳥肌が立った”瞬間
まっすぐな情熱が、何度かあった危機で「最後に彼を救った」
もっともダバディ氏の目から見ても、同じフランス国籍ながらトルシエの人物像は「すごくプライドがあって情熱的」なものに映っていたという。
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フランスの国立サッカー研究所(INF)で若くして指導者としての才能を発揮していたトルシエは、母国では当時「エリートコーチの中でトップ中のトップ」(ダバディ氏)という評価だった。そして34歳だった1989年にコートジボワールへ渡ると、そこからアフリカ5か国のクラブと代表チームを率い、98年フランスW杯には南アフリカ代表監督として臨んでいる。
こうしたキャリアを歩んだからこそ、ダバディ氏が感じたトルシエ監督の第一印象は「フランスの良いところと、フランスを出た人の良いところを両方持ち合わせていた人」というものだった。
「正統なフランスのコーチ育成システムの出身で、間違いなくエリートなのですが、温室のような環境に残らず、若くして監督として成功するために、あらゆる面で過酷なアフリカに行っていくつものチームで結果を出した。だからこそ、出会った時のフィリップは自信の塊だったし、ものすごくオーラがあって、人間的にもすごくインテリジェント。フランスにもいる『THE体育会系』の、根性論的な監督ではまったくなかったんです。
一番好きなのは、ACミランのアリゴ・サッキのサッカーで、当時の誰もやっていないような3バックの理論も持っていた。その頃のヨーロッパサッカーは保守的だったので、フィリップの戦術は否定されてしまうけど、それをアフリカやアジアでやり通せるというのは、間違いなく彼にとって幸せで、やり甲斐のあることでした」
日韓W杯までの在任期間中には、解任論や日本サッカー協会との軋轢も囁かれた。それでも指揮官の日本代表に対する情熱は、衰えることがなかったという。
「たしかに途中、いろいろな問題が出たことはありましたが、アフリカの環境を知っているフィリップにしたら、日本の選手は言うことを聞いてくれて、協会の人たちも概ね協力してくれる。やりたいことができるというのは、それまでの彼のキャリアを考えれば本当に充実した環境だったので、常に生き生きとしていたし、365日、日本代表のことしか考えていませんでした。そうしたまっすぐな情熱が、何度か訪れた危機でも最後に彼を救ったのだと思っています」