「テセが涙ぐんで喜んだ」 28年前に始まった交流、聖地で生まれた歴代フロンターレ選手の成長物語
富士通サッカー部の社員選手からJリーガー、そして日本代表へ
「この店を始めたのは、私が30歳の時。当時はまだ、武蔵中原駅は高架になっていなくて、ショッピングセンターもなければ今ほどマンションも建っていませんでした。ちょうど富士通の社屋ができた頃で、昼休みには2回に分けて社員の皆さんが食べに来てくれました。昼前の11時から夜の11時まで、ずっと働きっぱなしでしたね」
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工場の街である川崎は、日本鋼管や三菱ふそうや東芝など、さまざまな企業スポーツがひしめいていた。そんななか、富士通もサッカーやアメフト、バスケットボール、陸上など、さまざまなスポーツ部を展開。やがて田邉の店には、サッカー部の選手たちが顔を出すようになる。
「大きなバッグを持って、店に入ってきた若者たちに声をかけたら、サッカー部だって言うんですね。それが川口良輔と重野弘三郎。やがて竹内弘明や伊藤彰やベティ(久野智昭)なんかが常連になりました。それが1995年くらいの話」
のちにプロに転じたり、クラブのフロントに就任したりする人間もいるが、当時は全員が富士通の社員選手。彼らと親しくなった田邉は、旧JFLが開催されていた等々力陸上競技場に足を運ぶようになる。やがて1997年、富士通サッカー部は川崎フロンターレと名称変更。Jリーグ参入を目指すことを宣言する。しかし田邉は喜ぶどころか、むしろ不満だった。理由は、元Jリーガーがどんどん入団して、自分が応援していた社員選手の出番が減少していったからだ。
「最初は不満でしたよ。『強くなれば、それでいいのか?』って思っていましたから。そんなフロンターレの印象が、大きく変わるきっかけになったのが、息子の小学校の文化祭。選手たちが10人くらい来てくれて、名古屋グランパスから移籍してきたばかりの中西哲生が、朝礼台に立って小学生に話をしてくれたんですよ。内容は忘れましたけれど、すごく立派なことを言っていた記憶があります」
川崎がJクラブとなったのは1999年。その後も寮が移転する2010年まで、フロンターレ所属のJリーガーが店を訪れるようになった。代表歴のある選手で言えば、谷口博之、我那覇和樹、チョン・テセ、そして寺田周平。
「周平が代表に選出された時(2008年)、テセが涙ぐんで喜んでいたのも、この店でのことでした。そのうち、彼らがサインを求められる姿を見るようになって『そうか、そんなに有名になっていたのか』って(笑)、妙に感心しましたね」