“二刀流”で掴んだ金メダル 川除大輝が伝えたい「挑戦する心」の大切さ
北京パラリンピックの日本代表選手団旗手を務め、パラクロスカントリースキー男子クラシカル20km(立位)で優勝した川除大輝。帰国後、金メダリストとなって初めて出場したレースは、地元・富山で開催された「たいらクロスカントリースキー大会」だった。
子どもの頃から一般レースに出場、家族は「色々なことをやらせてくれた」
北京パラリンピックの日本代表選手団旗手を務め、パラクロスカントリースキー男子クラシカル20km(立位)で優勝した川除大輝。帰国後、金メダリストとなって初めて出場したレースは、地元・富山で開催された「たいらクロスカントリースキー大会」だった。
【前編】「不可能とは可能性だ」パラノルディック界エースを支えた色紙の言葉 / パラノルディックスキー 川除大輝選手インタビュー(GROWINGへ)
【後編】「自分にとって大きな力」 北京パラリンピック旗手が感じた応援の力 / パラノルディックスキー 川除大輝選手インタビュー(GROWINGへ)
健常者に交じってレースを走り終えた後には、色紙を持った子どもたちに囲まれる一幕も。「子どもたちが集まってきてくれたので、サインを書いたり、メダルを見せたり、一緒に写真を撮ったり。すごく喜んでくれたので、昔の自分を思い出しました」。嬉しそうに目を細めながら脳裏に浮かんできたのは、小学4年だった2010年、バンクーバーパラリンピックで金メダルを獲得した新田佳浩さんからサイン色紙をもらった自身の姿だったのだろう。
パラアスリートが健常者と同じ一般の大会に出場することを、意外に感じる人がいるかもしれない。だが、川除はクロスカントリースキーを始めた6歳の頃からずっと、一般の大会に出続けている。むしろ、パラスキーヤーとしての経歴の方が浅いくらい。高校時代には高校総体にも出場するなど、“二刀流”で磨いてきた。
生まれつき両手足の指の一部がない先天性両上肢機能障がいがあるが、幼い頃から興味を持ったことには何でもチャレンジできる環境があったという。
「うちの親は色々なことをやらせてくれました。小学校に入学する前は水泳をやっていましたし、算盤もやっていました。サッカーにも挑戦したり、僕がやりたいことはやらせてくれて、合わないと思ったらやめてもいいよ、と。子どもの意見を上手く汲み取りながら、割と自由が利く形でやらせてくれたので、今があるのかなと思います」
大人は子どもの安全を考えるあまり、とりわけ障がいがある子どもたちには「危ないから」という理由で、挑戦する機会を奪ってしまうことがある。だが、少年時代の川除の周囲には家族の他にも、挑戦する気持ちを後押ししてくれる大人たちがいた。
「小学校の時に入っていた(猿倉ジュニア)スポーツクラブのコーチも、色々なことに挑戦させてくれました。『これはやっちゃダメ』というのもなく、『やりたいならやっていいよ』と言ってもらえた。もちろん、本当に危険なことは止められましたけど(笑)、自由に遊んでました。小学生の頃からそういう環境があったので、良かったんだろうなと思います」