[THE ANSWER] スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト

なぜ、村田諒太は完敗から激変できたのか “魂の豪打”の裏に勇気と「半歩前」の徹底

1200発超のパンチを浴びた屈辱の「負け」が変化への起爆剤

 迎えた運命の一戦。序盤は前回のようなガードを固める時間もあった。村田は「『そこ前だよ! そこ前だよ!』という会長の声がものすごく聞こえました」と振り返る。コーナーサイドから聞こえる声に発奮し、すぐに違いを見せつけた。わずか2回の攻防で顔にできたあざや切り傷が物語る打撃戦。一歩間違えば、競技後の人生にも影響を及ぼしかねない、命の危険と隣り合わせの世界で打ち勝った。

【注目】育成とその先の未来へ 野球少年・少女、保護者や指導者が知りたい現場の今を発信、野球育成解決サイト「First Pitch」はこちら

 本田会長は多くのサポートをしながらも、王座を奪還できたのは村田の力だと強調する。「実力を出せば負けないと思っていたけど、ちゃんと出せるのはやっぱり持ってますよ。前回、あんなに跳ね上げられたのに、こんなのは中々ない。(長いプロモーター生活で最も感動した試合の一つ?)そりゃそうですよ」。わずか9か月間でディフェンス重視のスタイルから、被弾覚悟のファイター型に。日本のボクシング界を約50年間見てきた中でも、村田の変貌ぶりは劇的だった。

「こんなボクシング、なんでもっと早くできないの?って思う(笑)。でも、負けたからやったんです。オリンピックまで獲った人だから、自分のボクシングに自信を持っている。変えようと思っても…。やっぱり、ああいう負け方をしたから変えたんです」

 変化への起爆剤となったのは、1200発超のパンチを浴びた屈辱の「負け」。最初は再起を了承してもらえなかった村田は、現役続行を決断したことについて「そりゃ良かった。この結果が出たし、会長が飛び跳ねて喜ぶところなんて見たことなかった。一番、お世話になっている人ですから、そのシーンを作れて良かった」と感慨深げだった。リングに入場する直前の控室でも「こんな僕にチャンスをくれてありがとうございました」と会長に頭を下げていたという。

 世界的に層の厚い群雄割拠のミドル級に、再び日本人が舞い戻った。気になるのは今後のマッチメーク。本田会長は「本当の超一流がいる。本人はそれとやりたくてしょうがないんだから、(対戦相手に)選んでくれることを祈ります。ただの防衛戦なんてしないだろうし、今回の試合がどう評価されるか。選んでくれたら最高ですよね。カネロにしろ、ゴロフキンにしろ」と展望を見据え、最後に「また大変になるね」と笑った。

 1995年に日本人初のミドル級世界王者となった竹原慎二から、村田が初めて王座を奪うまで22年かかった。中重量級は日本人に手の届かなかった遠い世界。また夢を見られる時間が来る。

(THE ANSWER編集部・浜田 洋平 / Yohei Hamada)

1 2
W-ANS ACADEMY
ポカリスエット ゼリー|ポカリスエット公式サイト|大塚製薬
DAZN
スマートコーチは、専門コーチとネットでつながり、動画の送りあいで上達を目指す新しい形のオンラインレッスンプラットフォーム
THE ANSWER的「国際女性ウィーク」
UNIVAS
N-FADP
#青春のアザーカット
One Rugby関連記事へ
THE ANSWER 取材記者・WEBアシスタント募集