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名古屋の「赤」から岐阜の「緑」に変えた2人の情熱 Jリーグ昇格へ「命懸けだった」熱狂の4年間

サッカー・Jリーグは今年、開幕30周年を迎えた。国内初のプロサッカーリーグとして発足、数々の名勝負やスター選手を生み出しながら成長し、1993年に10クラブでスタートしたリーグは、今や3部制となり41都道府県の60クラブが参加するまでになった。この30年で日本サッカーのレベルが向上したのはもちろん、「Jリーグ百年構想」の理念の下に各クラブが地域密着を実現。ホームタウンの住民・行政・企業が三位一体となり、これまでプロスポーツが存在しなかった地域の風景も確実に変えてきた。

FC岐阜のホームスタジアム、岐阜メモリアルセンター長良川競技場。今から29年前、ここの水浸しのピッチで歴史に残るシーンが生まれた【写真:宇都宮徹壱】
FC岐阜のホームスタジアム、岐阜メモリアルセンター長良川競技場。今から29年前、ここの水浸しのピッチで歴史に残るシーンが生まれた【写真:宇都宮徹壱】

連載・地方創生から見た「Jリーグ30周年」第7回、名古屋・岐阜【後編】

 サッカー・Jリーグは今年、開幕30周年を迎えた。国内初のプロサッカーリーグとして発足、数々の名勝負やスター選手を生み出しながら成長し、1993年に10クラブでスタートしたリーグは、今や3部制となり41都道府県の60クラブが参加するまでになった。この30年で日本サッカーのレベルが向上したのはもちろん、「Jリーグ百年構想」の理念の下に各クラブが地域密着を実現。ホームタウンの住民・行政・企業が三位一体となり、これまでプロスポーツが存在しなかった地域の風景も確実に変えてきた。

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 長年にわたって全国津々浦々のクラブを取材してきた写真家でノンフィクションライターの宇都宮徹壱氏が、2023年という節目の年にピッチ内だけに限らない価値を探し求めていく連載、「地方創生から見た『Jリーグ30周年』」。第7回は名古屋と岐阜を訪問。後編では古くから隣県の大都市・名古屋の影響を色濃く受けてきた岐阜で、2008年からJリーグに参戦しているFC岐阜の姿を追う。以前は名古屋グランパスの赤に染まったスタジアムも、今ではFC岐阜の緑が定着。その裏にはクラブの黎明期に奮闘した2人の姿があった。(取材・文=宇都宮 徹壱)

 ◇ ◇ ◇

 7月初旬の地方取材は、土日でJリーグをハシゴした。1日の名古屋グランパスvs川崎フロンターレに続いて、2日はJ3第16節、岐阜メモリアルセンター長良川競技場でのFC岐阜vsいわてグルージャ盛岡を取材。結果はスコアレスドローだった。

 長良川といえば、Jリーグ30周年を記念するアウォーズの「ベストシーン」の舞台になったことで、再び脚光を浴びることとなった。今から29年前の9月17日に行われた、Jリーグ2ndステージ第11節、名古屋グランパスエイトvsジェフユナイテッド市原(いずれも当時)。主役はもちろん、このシーズンから名古屋に加入した、ドラガン・ストイコビッチである。

 強い雨が降り注ぎ、あちこちに水たまりができていた最悪のピッチコンディション。ピクシー(と、当時は呼ばれていなかったが)は自陣からのクリアボールを受けると、リフティングしながら一気に持ち上がる。4回、5回、6回とボールを弾ませてから前線にパス。受けた森山泰行は、そのままゴール前に持ち込もうとするが、相手DFのスライディングで阻止される。

 ゴールが決まったわけでもなければ、シュートを放ったわけでもない。公式記録にこそ残らないものの、当時のサッカーファンの記憶に深く刻まれた「ベストシーン」。それを生んだのは、ピクシーの類稀なテクニック、そして当時は水はけの悪かった長良川のピッチだった。

「あの試合、僕もゴール裏で見ていましたよ。当時は瑞穂だけでなく、長良川でもグランパスの試合がよく開催されていましたから、僕ら岐阜市民にはありがたかったですね」

 そう語るのは、黎明期の名古屋のゴール裏を組織化していた吉田勝利。のちに彼は、ピッチ上にいた森山と共に、FC岐阜の運営会社を立ち上げることとなる。結果、長良川は名古屋ではなく、岐阜のホームグラウンドとなった。

「もともと僕は(中日)ドラゴンズのファンでした。中学・高校の頃は、お金はなかったけれど時間と体力はあったので、自転車で2時間かけてナゴヤ球場に通っていましたね。なんとなく『岐阜にもプロスポーツがあればいいな』って思ったら、Jリーグが開幕してグランパスが長良川でも試合をしてくれるようになりました。ただ、この時は岐阜にもJクラブができるとは、夢にも思わなかったですね」

 吉田と同じ小学校(学年も同じ)だった森山もまた、「ドラゴンズがあるから」とか「グランパスがあるから」ではなく、故郷の岐阜にJクラブがあったらいいと考えていたという。その考えがより明確になったのが、雨の長良川から4年後の1998年。初めての(そして唯一の)海外移籍となった、スロベニアのNDゴリツァでプレーしていた時だったと森山は語る。

「NDゴリツァのホームタウン(ノヴァ・ゴリツァ)って、人口が3万5000人しかない、本当に小さな街なんです。それくらいの規模でもトップリーグを戦えるクラブがあることに、まず驚きました。そして『これなら岐阜でもできるんじゃないか?』って考えるようになりましたね」

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宇都宮 徹壱

1966年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」を追う取材活動を展開する。W杯取材は98年フランス大会から継続中。2009年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した『フットボールの犬 欧羅巴1999-2009』(東邦出版)のほか、『サッカーおくのほそ道 Jリーグを目指すクラブ 目指さないクラブ』(カンゼン)、『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)など著書多数。17年から『宇都宮徹壱WM(ウェブマガジン)』を配信している。

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