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灰色→青に変わった川崎のイメージ 転機から22年、「逃げられる街」を染めたフロンターレの色

川崎市の元副市長でフロンターレの顧問を務める砂田慎治氏。半世紀にわたり地域の変遷を見つめてきた【写真:宇都宮徹壱】
川崎市の元副市長でフロンターレの顧問を務める砂田慎治氏。半世紀にわたり地域の変遷を見つめてきた【写真:宇都宮徹壱】

川崎ではなく首都・東京を見据えていたヴェルディ

「ヴェルディのホームタウンが川崎に決まった時、一緒に地元を盛り上げてほしいという思いはありました。けれども、なかなか上手くいかなかったですねえ」

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 30年前のヴェルディ人気を記憶している人は、昭和生まれ限定であろう。開幕時からJリーグは「地域密着」を掲げていたが、川崎へのヴェルディの帰属意識は、極めて薄かった。砂田が語る「上手くいかなかったですねえ」という述懐が、そのあたりに起因するのは間違いない。

「当時はスター軍団でしたから、地元のイベントへの参加をお願いするにしても、クラブだけでなく選手の所属プロダクションを通す必要がありました。要するに、お金が必要だったんですよ。それから当時は、等々力での試合が限られていました。特にJリーグブームの時、ヴェルディは集客が期待できましたから、等々力以外での試合も多かったと記憶しています」

 確認してみると、1993年はリーグ戦のホーム18試合のうち、等々力が10試合、国立競技場が5試合、残りの3試合は札幌と博多と岩手であった。Jクラブが10しかなかった当時は、地方巡業もホームゲーム扱いだったのだが、それでも2万から3万近くの集客が見込めた。まさに全国区のヴェルディならではの記録である。

 こうした背景もあり、当時のヴェルディは、川崎市と真剣に向き合おうとはしなかった。むしろ彼らの視線の向こう側にあったのは、首都・東京である。

「調べていただければ分かりますが、よみうりランドの敷地は(東京都)稲城市よりも、川崎市多摩区のほうの面積が広いんです。けれども読売やヴェルディの人たちは、東京のほうばかりを向いていました。それは、川崎に住んでいた人たちも同様で、住所は川崎市だけど職場は都心という『川崎都民』は多かったんですよね」

 川崎市としては、なんとかヴェルディに留まってほしかった。そのために、1994年から95年にかけて等々力を改修して、ゴール裏やバックスタンドを2層式にした。それでも結局、ヴェルディは2001年に東京へ移転してしまう。当時の心境について砂田に尋ねると、実にさばけた答えが返ってきた。

「私自身は、それほど落ち込みませんでしたね。プロスポーツに逃げられるのは、すでに大洋やロッテで経験済みでしたから(苦笑)」

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宇都宮 徹壱

1966年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」を追う取材活動を展開する。W杯取材は98年フランス大会から継続中。2009年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した『フットボールの犬 欧羅巴1999-2009』(東邦出版)のほか、『サッカーおくのほそ道 Jリーグを目指すクラブ 目指さないクラブ』(カンゼン)、『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)など著書多数。17年から『宇都宮徹壱WM(ウェブマガジン)』を配信している。

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