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浅田真央が新たな伝説を作った日 失意のSP16位から復活、過去最高点で“恩返し”の涙

総合6位に収まらないインパクトと余韻

 でも浅田は、そのままでは終わらなかった。

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 翌日、フリーを迎える。

 冒頭のトリプルアクセルを成功させると、その後も回転不足となったジャンプはあったが、目標としていた全6種類、計8回の3回転ジャンプに着氷。142.71点と自己ベストを更新し、フリーで3位の好演技を見せたのだ。滑り終えた後、浅田はこれ以上ない笑顔を浮かべ、そして涙を流した。

 総合成績は6位。でも、その成績には到底収まらないインパクトと余韻を残して、浅田は2度目のオリンピックを終えることとなった。

 演技を振り返るなかで、浅田は当日の公式練習でも、気持ちの面も含め復調していなかったことを明かした。そこから取り戻せていったのは、姉の舞の厳しくも愛情のこもった叱咤激励をはじめとする声だったという。

「最後は覚悟を決めてリンクに立ちました」

 取材ではさまざまな質問に答えながら、笑顔が絶えることはなかった。

「昨日はすごく悔しい思いをして、心配してくださった方もたくさんいると思いますが、今日こうして自分の中で最高の演技をできたので、恩返しができたと思います」

 ショートプログラムの後、国内はもとより、海外のスケート関係者からも激励や応援のメッセージが相次いだ。それらに対しての、「恩返しができた」だったが、世界中からのエールに浅田のフィギュアスケート界での姿も窺えた。

 バンクーバー五輪では、ショートプログラムで女子史上初のトリプルアクセル成功、同じく史上初となるフリーでの2度成功、計3度の成功を成し遂げた。

 その後、ジャンプの修正と向上を図り、佐藤信夫氏に師事した。その中でスケーティングから徹底的に見直し、苦しみながら新たな技術も身に着け、トリプルアクセルの調子も戻していき、以前にない滑りと表現を形にするようになっていった。

 その間には、スケーターとしての浅田を支え、誰よりも熱心な応援者として見守ってきた母の死去もあった。

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松原 孝臣

1967年生まれ。早稲田大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後スポーツ総合誌「Number」の編集に10年携わり、再びフリーとなってノンフィクションなど幅広い分野で執筆している。スポーツでは主に五輪競技を中心に追い、夏季は2004年アテネ大会以降、冬季は2002年ソルトレークシティ大会から現地で取材。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)、『フライングガールズ―高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦―』(文藝春秋)、『メダリストに学ぶ前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)などがある。

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