スロバキア最難関大学を卒業した羽根田卓也 同級生半分が落第する異国名門校への挑戦
クラスメートに昼食を奢り、教授室に日本みやげを持って教えを乞う日々
――入学したのは体育学科。受験免除で入学できたものの、海外の大学に通うのは大変だったのではないでしょうか?
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「試験免除が良かったのか良くなかったのか、何のテストもなく入学し、授業が始まるとパニックでした。大学に通うまではスロバキアの片田舎が拠点。地元のクラブチームや友人レベルのコミュニケーションでした。でも、スロバキアなら誰もが目指したいくらい国内No.1の大学。内容も難しく、しかもスロバキア語。現地人が聞いても分からない授業を、僕が一緒に座って聞いている。
自分が今までやってきたはずのスロバキア語は通じず、何が分からないのかも分からないような状態。教授が言っていることはひと言も拾えず、これはとんでもないところに来てしまったと絶望しました。特に、大学1年生の最初の関門だったのが解剖学。筋肉や骨などの名前を全部覚え、どういう働きなのかを答えないといけない。この試験で、かなりふるいにかけられていました」
――そんな中でどんなキャンパスライフを送ったのでしょうか。
「トレーニングと勉強の両立で必死でした。授業のコマがあり、その間にトレーニングを入れる。『トレーニングの合間に学校に行く』ではなく『学校の間にトレーニングをする』という感じで。まずは授業に出て出席することが大事でしたが、授業に出ているだけでは追いつけない。授業後はクラスメートを捕まえ、お昼ごはんを奢って教えてもらう。日本に帰った時は必ずお土産をたくさん持ってきて、それを手に教授室のドアを叩く。『僕は日本から勉強に来ていて、スロバキア語もこんなレベル。個別に教えてもらえないですか?』と頭を下げる。
そんな風に各教科全部やっていたのが日常でした。特に向こうの大学はテストが凄く難しく、卒業も難しい。それは授業料が免除されていることと大いに関係していて、出来の悪い学生はテストで3回落ちたら退学。学士は3年、修士は2年ですが、3年目が終わる頃には僕のクラスも半分以下。それくらい平気で落としていく厳しい大学でした。なので、僕自身もテストに受かることに必死。スロバキア語でやらなければいけないから、教科によってはどうしても理解できない内容もありました。そういう時は日本から本を取り寄せて勉強していました」
――本というのは?
「参考書です。必要だったのは、まず知識。言葉は分からなくても知識があれば、自分の下手なスロバキア語でも『コイツ、話せてはいないけど、なんとなく理解しているな』と教授に分かってもらえる。なので、そもそも知識を理解するのに日本語の参考書を用意し、スロバキア語に翻訳していかなければいけない科目がたくさんありました。でも、それが凄くやりがいがありました。大学さえ通っていなければ、もっとトレーニングができて、質の良いパフォーマンスが出せたのではないかと当時は何度も思いましたが、今思うと後悔はありません」
――これだけ学びを続けられたのはどんなことが大きかったのでしょうか。
「自分の興味のある内容だったことが大きいです。体育学科でコーチングを専攻し、授業の内容が自分のパフォーマンスやカヌーにつながることもあり、やりがいのある授業が多かったです。身体の仕組みが理解でき、トレーニングメソッド、自分がコーチになった時の指導にも生かせる。全く関係のない分野だったら時間の無駄で終わったかもしれないですが、7年間で学んできたことで、パフォーマンスに還元できたものがたくさんありました。なぜ、コーチのメニューはこういうプログラムなのかなど、そのコーチからわざわざ教えられなくても、自分で理解することできました」