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「女子が太ももを出して走るなど、はしたない」 たった1人で五輪へ…偏見と戦い、日本女子スポーツを変えた24年の生涯

日本女子初のメダリストに…以降も女子スポーツのために走り回った

 人見は女子個人種目のすべて(100メートル、800メートル、円盤投げ、走り高跳び)にエントリー。本命の100メートルで準決勝敗退し「このままでは帰れない」と800メートルに臨んだ。走ったことがない種目だったが、2位でゴール。銀で日本女子初の五輪メダリストになった。

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 人見を抑えて優勝したラトケ(ドイツ)はゴール後に失神、決勝に出た9人全員が倒れた。壮絶なレースを受けて、この種目は1960年ローマ大会まで実施種目から外れた。「女子に長い距離は無理」の考え方があった。

 人見はメダリストになった後も、指導者として後進の育成に尽力し、毎日新聞の記者として女子の地位向上に健筆をふるった。さらに、選手として海外を転戦し、自ら先頭に立って女子陸上、女子スポーツのために走り回った。

 無理がたたったのか体調を崩し、わずか24歳で生涯を閉じた。最後まで女子スポーツの「先駆者」として後進のために道を開き、周囲の理解を得るために著書も残した。ただ、人見の思いが形になって表れるには時間が必要だった。まだまだ時代が追い付いていなかった。

 1992年バルセロナ大会、日本女子陸上界が人見以来のメダルを獲得する。マラソンで銀メダルを手にしたのが、同じ岡山出身で人見を尊敬していた有森裕子。レースの日は8月2日(日本時間)、64年前に人見がメダルを獲得した日だった。

(荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima)

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荻島 弘一

1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。

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