2人の山の神を生んだ福島はなぜ長距離王国に? まかれた種…98年前にドイツから帰った五輪ランナーは何者か
「THE ANSWER 陸上PLUS」は陸上競技の歴史・変遷を掘り下げ、その価値を問い直す連載「荻島弘一の陸上クロニクル」を展開。スポーツ新聞社で五輪を長年取材してきたスポーツライター・荻島弘一氏が執筆する。第6回は「日本の2回目の五輪挑戦」をひも解く。

「THE ANSWER 陸上PLUS|COLUMN」 荻島弘一の陸上クロニクルVol.6
「THE ANSWER 陸上PLUS」は陸上競技の歴史・変遷を掘り下げ、その価値を問い直す連載「荻島弘一の陸上クロニクル」を展開。スポーツ新聞社で五輪を長年取材してきたスポーツライター・荻島弘一氏が執筆する。第6回は「日本の2回目の五輪挑戦」をひも解く。
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日本の2回目の五輪挑戦は、ベルギーのアントワープで行われた1920年大会だった。1916年大会が戦禍によって中止になったため、日本が初参加した1912年ストックホルム大会以来8年ぶりの開催。選手数は2人から15人に増え、テニス2人、競泳2人以外の11人が陸上競技に出場、うち4人はマラソンだった。
五輪予選会を勝ち抜いた中には同年2月に行われた第1回箱根駅伝で活躍した選手たちもいた。最終10区で明大を逆転した東京高師(現筑波大)の茂木善作、早大の5区で山上りに挑んだ三浦弥平らが、連続出場の金栗とともにスタートラインに立った。
テニスでは熊谷一弥が男子シングルス、熊谷と柏尾誠一郎がダブルスで日本五輪史上初のメダル(銀)を獲得したが、陸上は苦戦した。それでもマラソンは1912年大会で途中棄権した金栗の16位を筆頭に、全員が完走した。
24位だった三浦は日本に帰国する選手団を離れ、ドイツに留学した。大学で学びながら地元のスポーツクラブで競技を続け、1924年パリ五輪にも日本代表としてドイツから参加した。帰国は1928年。郷里の福島県伊達郡白根村(現伊達市)に戻ったのは、本場で経験したスポーツ文化を日本に浸透させ、発展させるためだった。
ドイツ留学を通じて、三浦は地域スポーツクラブの魅力や施設の素晴らしさを実感する。スポーツを通した青少年育成に力を注ぎ総合スポーツ施設の「オリンピック村」を建設、自宅を「白根体育公民館」として開放した。福島初、東北初のオリンピアンとして、農村部の子どもたちにスポーツをする場所を提供し、自身の五輪やドイツでの経験を伝えた。
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