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異国でペンキ塗りバイト生活「五郎丸たちは活躍してるのに…」 ラグビー人生のどん底、悲哀…辿り着いた2015年の栄光

競技の第一線を振り返り、引退後のこれからを語った【写真:吉田宏】
競技の第一線を振り返り、引退後のこれからを語った【写真:吉田宏】

ラグビー人生のボトム「大学を出て2年間NZに行った時は結構きつかった」

 15年大会の初戦で優勝候補の南アフリカから歴史的な金星を挙げた“ブライトンの奇跡”は、海外でドラマ化もされている。それほどに、日本どころか世界中にインパクトを残した勝利だったが、この快挙までは日本国内でのラグビーへの関心度は決して高くはなかった。13-14年シーズンのトップリーグ1開催平均観客は4300人。堀江の発言はだいぶディフォルメされているが肌感覚としては間違っていない。W杯へと渡英する時も、ファンが空港に大挙見送りに来るような光景はなかったが、結果的にプール戦敗退で帰国した空港には数百人という人たちが待ち受けていた。

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 堀江の脳裏には、チームへの期待、注目が高まる中で臨んだ日本開催での8強入りという快挙よりも、グラウンド内では人を人と思わぬほどのエディーの過酷な練習に耐え、ピッチの外では“マイナー競技”の悲哀を何度も思い知らされたからこそ、15年大会後の報われた記憶が鮮烈に焼き付けられている。

 2015年がラグビー人生のハイライトなら、ボトムはどこだったのだろうか。そんな質問に、当時を思い返すように堀江は遠くを見つめた。

「今思うと、大学を出て2年間ニュージーランド(NZ)に行った時は結構きつかったですね。ほんまにこれを選んで大丈夫だったのかなという不安感がありましたね」

 帝京大を卒業した堀江が選んだのはクライストチャーチへの留学だった。大学時代のNZ人コーチがカンタベリー協会に在籍していたことにも助けられ、2シーズンのオファーを受けたが、所属したのは同協会が母体となるスーパーラグビー・クルセイダーズのアカデミー(育成機関)だった。当時のトップリーグ参入チームのほとんどが堀江を誘っていた。当時でも、海外挑戦を条件に企業チームと契約するに有望選手はいたが、引く手数多の堀江は敢えて後ろ盾がないままの挑戦を選んだ。

「大学までNo8でしたけれど、上を目指すにはHOじゃないと無理だと決めていました。でも、トップリーグチームの誘いの多くはNo8をしながら(HOの)勉強していいよというものだった。それしちゃうと、怪我人が出たりしてNo8やFLやる時間が増えるとしゃあないと思っていたんです。国際舞台でプレーするのも遅れるやろなというのもありましたから、環境変えるしかないと考えてました」

 帝京大時代の堀江は、柔軟なステップ、フィジカル、スキルを併せ持つ機動力抜群のFW第3列として大学ナンバーワンの実力だったのは間違いない。だが、日々国際化が進む日本ラグビーの中で180cm、100kg程度のサイズではFW第3列での成功が難しいことは堀江自身が一番強く実感していた。多くの日本人バックローに倣ってのHO転向は当然の選択だったが、中途半端な挑戦だけはしたくなかった。その思いが、3列で起用される可能性がなく、HOに専念できるであろうNZでの挑戦を強く後押しした。

 留学を選んだ理由は、もう1つあった。当時の堀江にとっては、将来思い描く理想が日本では叶えられないものだったことだ。

「その頃なりたかったのは日本代表ではなくオールブラックスでしたからね。もう、とりあえずスーパーラグビーに道開くために(NZに)行かなあかんという思いだった。それに、海外に行って失敗するんやったら早めだぞと思って行ったんです。けれども NZに行ったら、日本国内での色々な情報が聞こえてくる。五郎丸ら同期生が活躍していたりね。日本じゃ皆ラグビー漬けの充実した生活を送っていたのに、僕はバイトでペンキ塗りとかしながらラグビーをしていた。上手くなっているんかな、HOとして良くなっているのかなと思いながら過ごしていた時期だった」

 名門クルセイダーズを擁するカンタベリー協会との契約とはいえ、アカデミー選手では生活していくには十分なサラリーではなかった。アルバイトとラグビー漬けの毎日。日本国内では一目置かれた堀江も、寮の管理人をして、壁のペンキ塗りなどで生活費を補っていた。成功する保証がないまま、バイトに汗しながら慣れないHOでの挑戦を続けていたのだ。

「不安感と海外の生活のストレスもあって結構大変でした。でも、それがあったから、次のオタゴだったり、レベルズだったりにすんなりと入っていけたのかも知れないですね」

 このラスボスのキャラクターの一端でもある開拓精神については後に触れるが、その源泉はクライストチャーチでのタフな生活にあるようだ。そして留学先がカンタベリー協会だったことが、堀江自身も想像しなかった、その後の日本でのサクセスストーリーに決定的な影響を及ぼすことになった。

「カンタベリーで1年目のシーズンで、トップチームへの招集はなかった。そこで、お金も十分じゃなかったので、レンタル移籍のような解釈で日本のチームに参加しようという話になったんです。で、カンタベリーから紹介されたのが三洋電機とサニックス。大学時代に誘われていたチームだったら迷わずそこを選んだけれど、どちらも僕に声をかけていないチームだったし、どこにグラウンドがあるかも知らない。正直どっちでも良かったんで、カンタベリーのスタッフに決めていいと話していました」

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吉田 宏

サンケイスポーツ紙で1995年からラグビー担当となり、担当記者1人の時代も含めて20年以上に渡り365日欠かさずラグビー情報を掲載し続けた。1996年アトランタ五輪でのサッカー日本代表のブラジル撃破と2015年ラグビーW杯の南アフリカ戦勝利という、歴史に残る番狂わせ2試合を現場記者として取材。2019年4月から、フリーランスのラグビーライターとして取材を続けている。長い担当記者として培った人脈や情報網を生かし、向井昭吾、ジョン・カーワン、エディー・ジョーンズら歴代の日本代表指導者人事などをスクープ。ラグビーW杯は1999、2003、07、11、15、19、23年と7大会連続で取材。

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