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「僕は金メダルに届かない選手」悩み傷ついた18年間 それでも日本競泳界に入江陵介は不可欠だった

引退会見を行った入江陵介【写真:中戸川知世】
引退会見を行った入江陵介【写真:中戸川知世】

最も印象に残るレースは「ロンドン五輪のメドレーリレー」

 長い競泳人生を支え続けたのは会見で「家族」とも話した「日本代表競泳チーム」への思い。最も印象に残るレースを聞かれると「ロンドン五輪のメドレーリレー」と即答した。入江、北島、松田丈志、藤井拓郎で手にした史上最高の同種目の銀メダル。「(北島)康介さんを手ぶらで帰すわけにはいかない」という松田の名言とともに、日本競泳陣が五輪最多11個のメダルを獲得したロンドン大会のハイライトだった。

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「銀メダルだけではなく、スタンドでチーム全員が立ち上がって喜んでくれたのがうれしかった」と振り返った。当時「競泳は(代表選手)27人のリレー。(最終種目の)男子メドレーリレーの最後の選手がタッチするまで大会は終わらない」という言葉で感動を表現した。翌13年バルセロナ世界選手権の銅メダルを最後に、同種目の世界メダルはない。「メドレーリレーを復活させたいという思いは強かった」と話した。

 会見では「影響を受けた選手」として2人の名をあげた。サプライズゲストとしても登場した北島氏と、同氏引退後に16年リオデジャネイロ五輪まで日本チームの主将を引き継いだ松田氏。「理想の2人。そういうふうになりたかったけれど、なれなかったのかなと思う」と言った。

 22年福岡世界選手権後、パリ五輪挑戦を表明した入江に日本競泳チームの主将としての「覚悟」を感じた。性格的には北島や松田のようにチームを引っ張るタイプではない。チームの和を大切にし「みんなで頑張ろう」というスタイル。若い選手への声掛けも常に相手を気遣って優しい。ところが、そんな入江の思いはなかなか伝わらなかった。

「時には厳しく言わなければいけないのかも」という決意をパリ五輪挑戦表明直後に聞いた。チームへの強い思いを感じながらも「それぞれタイプが違うから、無理しなくても」と返したが「嫌われ役になることも必要かもしれないですね」と強い思いは変わらなかった。

 結果的にどこまで「嫌われ役」になれたのか分からない。五輪選考会では日本新0と日本競泳陣の不振は変わらないし、入江自身もパリ五輪出場を逃した。それでも、ラストレースとなった選考会の200メートル背泳ぎ見て、入江が覚悟を持って発信してきたことは伝わっていると思った。

 入江が3位に終わったレースでパリ五輪キップを手にした19歳の竹原秀一(東洋大)は尊敬する大先輩に「おめでとう、頑張って」と言われ「泣きそうになった」と振り返った。次のレースに出た女子平泳ぎの鈴木聡美も「最後まで泳ぐ姿に胸が熱くなった」と言った。スタンドの拍手は、この日一番。引き揚げる34歳に仲間や関係者が次々と駆け寄った。

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荻島 弘一

1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。

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