女子選手の「メイクと競技」の根深い問題 「美」から支える元バドミントン選手の使命
「角刈り強制」だった高校バドミントン部「髪を切られる自分を見て泣きました」
「アスリートビューティーアドバイザー」という仕事は、花田さんが選手として経験した過去が影響していた。
地元・富山市でバドミントンを始めたのは小学3年生の時。「自分がどんどん上達するのが楽しくて好きになった」とメキメキと上達し、高校は全国大会優勝の経験を持つ県内の強豪校に入学。日本一を目指し、下宿生活で競技に打ち込むことになった。
小中時代はオシャレ好きな少女だった。メイクに興味のある友達が多く「アイシャドウ」「マスカラ」といった単語は小学生で知っていたし、「ピチレモン」も読み、ロングヘアにはストレートパーマをかけた。SPEEDに憧れ、アクターズスクールの資料を親に内緒で取り寄せもした。
すべてが変わったのが高校入学だった。
部活は「角刈り強制だった」と花田さん。入学前から知っていたが、「甘く見ていました」という。周りは当たり前に角刈りにする中で「我慢できるくらいのショート」で入部したが、キャプテンに2度の呼び出しを食らい、「覚悟を決めなよ」「髪は切ってきて」と言われた。
「部員が行く美容院に行きました。説明しなくても『ああ、バドミントン部の子ね』と髪を切ってくれる店で。切られる自分を見て泣いていました」
そして、鏡に写った自分を見て思った。「もう女は捨てて、日本一を目指そう」「高校はバドミントンに捧げよう」と。キャプテンに言われた通り、覚悟は決まった。元日以外は休みなし、過酷なトレーニングに励み、バーベルスクワットでは100キロを挙げられるようになった。
一方で、コンプレックスが増幅したのも、この3年間だった。当時はニキビ顔で、175センチの長身、しかも髪形は角刈り。すべては「日本一になりたい」という目標に支えられていたが、道行く男子高校生にすれ違いざまに「きもっ」と言われた時は、さすがに傷ついた。
「ジャージが一張羅なので、ジャージがあればどこにでも行ける生活。たまにファッション誌を読むことはありましたが、単なる憧れで……」
同期はダブルスで日本一などの成績を残したものの、自身はレギュラーに定着できず。望んだ成果を挙げることはできなかった。卒業式の翌日には角刈りにしていた店とは別の美容室に行き、貯めていたこづかいでエクステを付けた。
この高校生活が原点になった。最も大きなことは「角刈りを強制されたこと」ではなく、自分で自分を認められなくなったこと。
「髪を切ってまでバドミントンに捧げたのに……という思いはないんです。ただ、自己肯定感を持てなくなっていました。自分は何をやってもダメだ、努力をしても報われないと思うような人間になっていたんです」
「女を捨てる」と退路を断っていたから、そうまでしても結果を出せなかった自分に自信が揺らいだ。大学でも競技は続けたが、また努力が裏切られるかもしれないと思うと怖かった。2年生で燃え尽き症候群のようになり、ラケットを置いた。転機になったのは就職活動中だった。
07年ミス・ユニバースに輝いた森理世さんの存在を知り、憧れた。日本大会を見に行き、涙するほど感動して「私もこの舞台に立ちたい」と周囲の反対を押し切り、モデル事務所に入った。コンプレックスだらけだった自分に別れを告げようと思った。
日本大会には進めなかったものの、モデルとして「人に見られる」という経験が自分を変えた。
「バドミントンで燃え尽き、何をやっても自分はダメだと思っていた時にモデルをやったことで世界が広がりました。自分で行動して、いろんな人に会い、会話して。もう一度、挑戦しようと思えるようになったのは発見でした。同時に、これを現役時代から知っていたかったとも思いました。
自分に自信がないと、進路を選ぶ際も周りに振り回され、やりたいことがあっても『無理だ』と言われたら『そうだよね……』と無意識に受け入れてしまう。でも、自分に自信を持つことで、そんなことをせずに挑戦し続けられる、可能性を信じ続けられると伝えていきたいと思ったんです」
29歳で開業。かつての自分のように自信を失っている女性アスリートを救いたいと、「アスリートビューティーアドバイザー」として活動を始めた。当初はチームや企業に営業に行っても理解されず、資料を投げつけられたこともある。しかし、情熱は人の心を動かした。
徐々に「花田さんにメイクをしてもらいたい」という声とともに、活動の場は広がった。五輪競技からパラ競技、格闘技まで。最近は、ある国内大会の会見に登壇した10代選手のメイクを手掛けた際、選手の保護者、関係者から「いつもより笑顔が多い」と言われ、その価値を実感した。