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呆れられた「箱根駅伝を中継しましょう」 TVマンも繋いだ襷、他局の温情で実現した日テレの箱根

日本テレビの箱根駅伝完全中継を実現させた坂田信久氏【写真:荻島弘一】
日本テレビの箱根駅伝完全中継を実現させた坂田信久氏【写真:荻島弘一】

テレビ東京から日本テレビに中継局が変わる経緯

 もちろん、意思が変わっていないことを伝えた。「絶対にやりたいと思っています。だから、日本テレビができるようにしておいてください」と伝えた。「ずいぶん無理なお願いをしたけれど、東京12チャンネルとの契約を1年ごとの更新にしてくれた」と坂田氏。このやり取りがあったから、将来的に日本テレビが放送できるような態勢が整えられたのだ。

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 79年1月3日、箱根駅伝のテレビ放送が東京12チャンネルで始まった。資金的にも厳しく、中継車など機材にも限りがある同局の放送は、工夫をこらしたものだった。2日の往路と3日の復路9区までは収録。復路のゴールに合わせてVTRを編集し、最後の10区だけを生放送した。視聴率は初回から8%。その後も上がり続けて83年には2桁を突破した。

 その間も、坂田氏は山を含む全10区を完全中継するために奔走していた。80年代に入って放送技術も進歩。マラソンブームもあって、ロードレースの中継数も飛躍的に増えていた。最難関と思われてきた箱根の山も克服できるめどが立ってきた。85年12月、全国高校駅伝を取材した坂田氏は、優勝した報徳学園(兵庫)の選手たちが「次の目標は箱根駅伝」と声をそろえるのを聞いて「背中を押された」と本格的に中継実現に動き出した。

 86年6月、日本テレビの役員局長会に提出した企画が3度目で認められると、坂田氏は東京12チャンネルのスポーツ局を訪ねた。旧知の白石剛達局長に放送を譲り受けるお詫びとこれまでの放送に対する感謝を伝えた。「巨人戦1試合ぐらい(の放送権)はもらわないと、と冗談を言われた後、君の中継を楽しみにしているよと言ってもらった」と坂田氏。「東京12チャンネル運動部の情熱(布施鋼治著、集英社)」によれば、白石氏も「ヨチヨチ歩きのランナーが一流ランナーにタスキを渡した感じでしたね」と話したという。

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荻島 弘一

1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。

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