亡き盟友・平尾誠二との約束 協会新会長として受け継ぐ“日本ラグビー改革”の遺志
敵味方に分かれても続いた腹を割った付き合い
もちろん、同志社大を卒業後もお互いに影響を与え合ってきた。社会人ラグビーではライバルとして対峙した2人は、主将としてチームを率いた1989年度全国社会人大会決勝で相まみえた。軍配は高校時代同様に平尾さんに挙がったが、土田主将にとっては就任1年目で、チームを東日本社会人リーグ初制覇、初の全国大会決勝進出に導いた特別なシーズンだった。
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6シーズン後の95年度には現役を引退して監督に就任したが、この時も土田新監督は神戸の盟友のもとに足を運んでいる。
「監督就任の時に、誰を主将にするか相談しに行って、永友(洋司/現・横浜キヤノンイーグルスGM)に決めました」
試合が終われば敵味方関係なく“ノーサイドの精神”を分かち合うのがラグビーだが、この2人には、いつ何時でも、チームや敵味方を超越した絆が強く結ばれていた。監督就任1年目のこのシーズンに、前年度まで7連覇を続けてきた神戸製鋼の優勝を阻み、チーム初の全国社会人大会、日本選手権制覇を果たしている。
そして、運命は再び平尾さんとの共闘へと結びつく。1995年ワールドカップ(W杯)での惨敗などで低迷する日本ラグビーの再興を託され、翌96年に平尾さんが代表監督に就任。すると、翌年には敵将でもあった土田監督に補佐役のヘッドコーチ就任の声がかかった。
当時の現場取材では、世界の情報を集めながらスマートに強化を進める平尾監督と、ゲームメンバーから漏れた若手を“秋田工仕込み”の猛練習で鍛え上げた鬼軍曹・土田ヘッドコーチという印象を強く持った。しかし、今回改めて土田会長に当時の代表強化について聞くと、この2人の指導者が、すでに成熟したリーダーとしての個性をぶつけ合いながら世界に挑んでいたことが分かる。
「平尾と一緒にやっていったなかで、僕はどちらかというと組織を固めてから個を伸ばすようなチーム作りをしてきた。平尾は逆で、常に個人の素質を大事にして、チームを作っていく。このやり方がサントリーと神戸製鋼の違いかもしれないし、僕の形は茶道や武道でいう守破離(千利休の教え『規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな』が語源)なんですね。でも、(手法の異なる)平尾とやることで、一緒に学んだかなと思いますね」