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亡き盟友・平尾誠二との約束 協会新会長として受け継ぐ“日本ラグビー改革”の遺志

選手や指導者として、平尾誠二さんと歩んだキャリアを振り返った日本ラグビー協会の土田雅人会長【写真:高橋学】
選手や指導者として、平尾誠二さんと歩んだキャリアを振り返った日本ラグビー協会の土田雅人会長【写真:高橋学】

平尾氏と出会わなければサントリー行きの「選択肢もなかった」

 ラグビー選手としての平尾さんの最大の危機だった“女性誌モデル事件”では、土田会長も盟友のラグビー復帰を後押しした。この事件は、当時ラグビーという枠を超えて人気があった平尾さんが女性誌の取材に応じて掲載されたグラビア写真が、アマチュア規定に触れるのではないかと問題視された騒動だ。今では冗談のような出来事だが、スポーツ界の中でも厳然たるアマチュアリズムを貫いていた当時の日本ラグビー界では大問題となった。協会内の議論は選手資格の剥奪にまで及んだこともあり、嫌気が差した平尾さんは、英国ロンドンへの留学に旅立った。

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「あの事件も、彼の幅広い交友関係があったから起きた。平尾は本当にもうラグビーを辞めて、イングランドで勉強をしようという方向性までいっていました。でも、ちょうど日本代表のフランス遠征があって、僕も参加していました。そこに彼がイギリスから来てくれたんです。僕から平尾には『もう1回(ラグビー界に)行け』という話をしました。同じ頃、彼も亀高さん(素吉/当時の神戸製鋼所専務)が英国まで来て説得されていた。入社して再び本格的にラグビーをする方向性が見えてきたので、僕も安心したんですけど、日本を離れる時は辞める覚悟でした」

 平尾さんには仇にもなりかけた広い交友関係だったが、その恩恵は土田会長の人生の選択にも影響していた。

「いつも平尾の周りには(ラグビー界とは)全然違う業界の人がいて、僕もそういう人を紹介してもらい、いろいろな話を聞けたことで成長できた。サントリーを選んだのも、その影響です。当時のラグビーは工場スポーツだった。例えば東芝(府中)のように会社の敷地に工場があって、グラウンドがあってというのが常識。でも、平尾から紹介してもらった人たちとの交流もあって、スーツを着た仕事で自分自身も成長できるのかなと思うようになった。当時営業をしながらラグビーをやっていたのはサントリー、リコーくらいかな。他には秋田市役所のような仕事です。少なかった。でも、平尾と出会っていなければ、こういう選択肢もなかったと思います」

 今はサントリーで要職に就く土田会長だが、ビジネスマンとして戦いながらラグビーに打ち込んできた道程の選択に、高3の夏に出会った盟友の存在が大きく影響していたのだ。

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土田 雅人

日本ラグビーフットボール協会会長 
1962年10月21日生まれ、秋田県出身。名門・秋田工高で頭角を現すと、同志社大に進学し平尾誠二らと大学選手権3連覇を果たす。卒業後はサントリーに入り、ラグビー部で活躍。95年に現役を引退してサントリー監督となると、1年目で日本選手権優勝に導いた。97年からは日本代表フォワードコーチとなり、監督となった平尾を支えて99年W杯を経験。2000年からは再びサントリーを率いた。本業でも要職を歴任するなか、15年に日本ラグビー協会理事に、今年6月には新会長に就任した。

吉田 宏

サンケイスポーツ紙で1995年からラグビー担当となり、担当記者1人の時代も含めて20年以上に渡り365日欠かさずラグビー情報を掲載し続けた。1996年アトランタ五輪でのサッカー日本代表のブラジル撃破と2015年ラグビーW杯の南アフリカ戦勝利という、歴史に残る番狂わせ2試合を現場記者として取材。2019年4月から、フリーランスのラグビーライターとして取材を続けている。長い担当記者として培った人脈や情報網を生かし、向井昭吾、ジョン・カーワン、エディー・ジョーンズら歴代の日本代表指導者人事などをスクープ。ラグビーW杯は1999、2003、07、11、15、19、23年と7大会連続で取材。

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