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少子化に教員不足…部活のあるべき姿とは? 78歳名将の願い「人間づくりを忘れずに」

萩原秀雄さんは2008年の北京五輪でバレーボールの日本チーム団長を務めた【写真:本人提供】
萩原秀雄さんは2008年の北京五輪でバレーボールの日本チーム団長を務めた【写真:本人提供】

教え子や元コーチが驚く「観察力」と情熱

 川越高に勤務して痛感したのが、賢い生徒は部活動も勉強も時間を有効に使い、目標を持って取り組むということだ。「目標なしにやっていても効果がないことを思い知った」と話し、こんな裏話を披露する。

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 持久力養成のため鉄棒を取り入れ、そのうち懸垂のデータは5回、10回、15回と数字が推移した。「まず5回を目標値に設定し、クリアしたら10回、さらに15回と5回刻みに増やしていたんです。川越高に14年勤務したおかげで、指導者として成長させてもらえました」と感謝する。

 80年4月の人事異動で開校2年目の坂戸西高に転勤。新設校で選手は揃っていなかったが、前任地での経験があるので1年目からやれる自信、手応えはあったそうだ。6年目に初陣の関東高校大会でいきなり4強入りし、7年目には全国高校総体に初出場。“春高”(全日本高校選手権)は、88年の第19回大会2回戦で初出場ながら優勝した崇徳(広島)と競り合いを演じている。

 退職した05年までの25年間で春高を4度、全国高校総体を9度経験。教員生活晩年は全国高体連バレーボール専門部強化委員長、同専門部長、第31回大会から春高バレーの大会実行委員長を5年務めた。春高にはマネジャー登録でベンチ入りしたが、「監督のつもりで審判に抗議したら『先生は監督ではありません、下がってください』って怒られちゃってね」と笑った。春高は監督の立場というより、高体連や大会事務局としての関わりのほうが深かった。

 坂戸西高での思い出も数え切れず、勝っても負けてもいろんな選手や試合が目に浮かぶそうだ。なかでも、揃って日本代表に上り詰めた兄・裕太(東レ)と弟・達也(サントリー)の米山兄弟を育て上げたことは、自慢の一つでもある。「2人とも上背はなかったが、能力はとてつもなく高かったですよ。一番いい選手をつくれた」と振り返る。

 裕太は専門誌に「バレー人生で一番思い出に残る監督が萩原先生。夜中まで続いた練習で今の自分をつくっていただいた」と記す。達也もチームの公式サイトに「仲間への思いやり、団体スポーツの基本など高校時代の教えが今の土台になっています」と綴っている。

 現在、坂戸西高を率いる徳留清智監督は、萩原さんの下で9年間コーチを務めた。東京学芸大学2年の長男・聖大さん、長野・松本国際高校2年の二男・巧大さんはともに桜中で萩原さんの薫陶を受け、兄は2年連続で全国中学校体育大会出場。弟はコロナ禍で大会中止が相次いだが、強豪の松本国際高では1年生から主力として活躍する逸材だ。

 徳留監督は「どの選手も細かく観察しているのが萩原先生の凄いところ。この選手の適性はどうなのか、どんな教え方をしたら上手くなるのかなど、将来のことを見据えながら指導しています。情熱も坂戸西の頃と少しも変わっていませんね」と名将の横顔をこう紹介した。

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