「ちょっと面白い選手をとったよ」から19年 大野均はいかにして“鉄人”になったのか
事欠かない酒のエピソード…「シックスパックマン」と呼ばれる所以は?
肉体的な消耗が激しいLOというポジションで41歳まで常に体を張り続けてこれた理由を、大野は「(ラグビーを始めた)日大工学部であったり、東芝ブレイブルーパス、あと日本代表、サンウルブズもですけど、本当に魅力的なチームで、このチームで勝ちたいと思わせてくれる人たちが集まった集団だったので、このチームのために自分ができることを全部投げ出そうという思いでずっとやってきました」と語っている。そして、同時にこの会見では、「声援に勇気づけられた」「応援していただいたことに対して感謝しかありません」と、自分の背中を後押ししてくれたファンへの思いを6度も語っていた。
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グラウンドを離れれば無類の酒好きということは、関係者、ともに戦った選手なら誰もが知るところだ。グラスを傾けるなどという常套句は通用しない。着席と同時に、左手にボトルネックを掴み、右手には自分か同席者のためのグラスか、氷を入れるためのトングが握られている。
日本A代表として行われた2007年のオーストラリアA戦はタウンズビルで行われた。2003年ワールドカップで日本代表が3試合を戦ったこの町は、17時を過ぎるとバー以外は開いていないような町だった。町内で唯一の大型スーパーだけが夜も営業していたが、20時過ぎに買い物を終えて店外に出ると、暗闇の中に巨大なシルエットが浮かび上がった。
目を凝らすと、小脇に缶ビールのパックを抱えた大野が嬉しそうに笑顔を浮かべていた。部屋呑みのためにホテルを抜け出し“燃料補給”をしていたのだ。日本在住の外国人選手や関係者の中で、大野は「シックスパックマン」と呼ばれていたが、それは腹筋が6パックに割れているからではなく、6パックのビールを愛していたからなのだ。
引退会見でも酒の逸話が語られていた。
「代表2年目でフランス遠征に行った時ですね。日本からホテルに着くまで24時間かかって、みんなヘロヘロでチェックインした。自分は伊藤剛臣さんと同じ部屋で、皆疲れていたので剛臣さんも寝るのかと思ったら、今から外に呑みに行くと言われて、ロビーに降りたら箕内拓郎さんもいた。こういうタフな人たちがジャパンで活躍できるんだなと、そこで再認識させられました」
会見後に伊藤剛臣自身に聞くと「(大野)均も呑む気でいた」と語っていたので、会見では大野が先輩を“立てた”と解釈しておこう。
この2人は大野が初代表に選ばれた2004年の福島合宿でも合宿を抜け出し、近くの焼き肉店で大野の初代表入りを祝った“前科”もある酒豪コンビ。当人たちの名誉のために触れておくが、大目玉を落とした当時の萩本光威監督は合宿最終日に「抜け出してまで行ったのなら美味い店に違いない」と、その焼き肉店で打ち上げ食事会を行う粋な計らいで2人を“放免”している。