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恩師エディーとの忘れられないエピソード W杯で日本と激突、大野均が語る敵将の素顔

現役引退時に留守番電話に入っていたメッセージ

 取材者としては、ジョーンズHCとの付き合いは1996年からになる。東海大のコーチとして来日し、日本代表でも、同年指揮を執った山本巌監督の下でコーチに招かれたのだ。無名の元教師は、当時のラグビーで重視し始められていたブレークダウンを、どのような構造で形成するのか、どう人数をかけて優位に立つか、そして選手個々の密集に入る姿勢、ポジショニングやスキルと、世界最先端の考え方を合理的な指導でチームに落とし込んでいた。

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 ただし、勝負については至ってシンプルだ。勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。特に代表HC就任後は、徹底して勝利にこだわり続けた。ある会見で、日本人特有の負けても苦笑混じりで話す選手を見て、「どうして笑うんだ」と怒りを爆発させたのは語り草だ。とばっちりで、報道陣も「笑えるゲームじゃない!」と怒鳴り散らされたほどだった。真相は怒り半分、どんな試合でも勝利に拘るマインドをチームに植えつかせるための演技半分というところだろうが……。

 大野氏も、日本代表時代の出来事をこう振り返る。

「力の差があるアジアの代表チームとの試合でも、勝負への執念は凄かった。100点ゲームで勝っても、ある選手の軽いプレーを見逃さず、試合後に『今度あんなプレーをしたら、もう試合には出さない』と激怒していましたね。

 僕ですか? もう世代的には怒られ係は卒業していたので、僕にとっては人間として魅力的な人だという印象です。でも、ああやって選手を厳しく怒ったのも、その試合自体よりも、ワールドカップからの逆算をするなかで、大事なテストマッチの一つだという意味合いからだと感じていました」

 代表時代ともに過ごした時間に、ジョーンズHCから強いインパクト、影響を受けた大野氏だったが、忘れられないのは、現役引退の時の留守番電話だという。

「引退を発表して、そのニュースがインターネットに出たら、30分後くらいに見慣れない着信が来ていたんです。後で気付いて留守電を聞いたらエディーさんでした。日本語で『均ちゃん、おつかれさま』というメッセージを入れてくれていたんです」

 ジョーンズHCは、当時すでに世界最強を目指すイングランド代表HCに就任して英国での挑戦を始めていた。それにもかかわらず、日本代表の功労者に直接電話で労いの言葉を伝えようとしてきたのだ。この姿勢こそが、勝利至上主義の敏腕指揮官だけではないジョーンズHCの資質であり、どんなに厳しく、時には理不尽なほどのハードワークを課しても選手がついていく理由だろう。大野氏は、恩師への感謝の思いと敬意を込めて、桜のジャージーの後輩たちのW杯の舞台での“恩返し”を心待ちにする。

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大野 均

ラグビー元日本代表 
1978年5月6日生まれ、福島県出身。小学生時代から野球を続け、日大進学後にラグビー選手としてのキャリアをスタート。身長192センチの恵まれた体躯を武器に頭角を現すと、卒業後は東芝府中ラグビー部(現・東芝ブレイブルーパス東京)に加入した。日本代表にも2004年から選出され、通算キャップ数「98」は歴代最多。W杯にも07年から3大会連続で出場している。20年に現役を引退し、現在は東芝ブレイブルーパス東京のアンバサダーを務めている。

吉田 宏

サンケイスポーツ紙で1995年からラグビー担当となり、担当記者1人の時代も含めて20年以上に渡り365日欠かさずラグビー情報を掲載し続けた。1996年アトランタ五輪でのサッカー日本代表のブラジル撃破と2015年ラグビーW杯の南アフリカ戦勝利という、歴史に残る番狂わせ2試合を現場記者として取材。2019年4月から、フリーランスのラグビーライターとして取材を続けている。長い担当記者として培った人脈や情報網を生かし、向井昭吾、ジョン・カーワン、エディー・ジョーンズら歴代の日本代表指導者人事などをスクープ。ラグビーW杯は1999、2003、07、11、15、19、23年と7大会連続で取材。

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