体重32kg、出せなかったSOS 鈴木明子が語る摂食障害の怖さ「私の経験役に立てて」
48キロあった体重が32キロに、SOSは「出せなかったです」という理由とは
チームのスタッフや仲間とともに空港でステーキを口にした鈴木さんは突然、体に変調をきたし、トイレで嘔吐する。
「試合で疲れている上、肉を控えていたので、胃がビックリしたんだと思います。でも、胃液までウワッと出て、吐くということが、すっごく苦しかった。それでトラウマのようになってしまい、肉を食べることが怖くなってしまいました」
また、実家から離れたことも、プレッシャーになった。「ここで太ったら、自己管理ができてないと思われる」。今までの「きちんと体形をコントロールできる」という褒め言葉が、「太ってしまったら自分ではなくなる」という強迫観念に転じた。
そして大学入学後、たった1か月の間に、体重は48キロから40キロにガクンと落ちる。
「最初は『体重が減ってちょうどいい!』と思ったんです。でも、筋肉がどんどん落ち、体力がなくなり、練習が思うようにできなくなってしまった。摂食障害が怖いのは『じゃあ、これからは食べよう』と思っても、自分では食事のコントロールができなくなるところです。どんどん痩せていく自分には気づいてはいても、どうしたらいいのかわからない、という状態でした」
もしかしたら、自分は摂食障害かもしれない。そう思うようになり、本も読み漁った。しかし、今度は「次は過食がくるのではないか?」「食べてしまったら、ブクブクと太っていくのではないか?」という恐怖心が先に立った。体重はついに38キロになり、事態を重く見たコーチと大学は、実家での静養を提案した。
もっと早く、SOSは出せなかったのか? その問いに、鈴木さんはしばし考え、「……出せなかったですね」と答えた。
「自分でなんとかなると思っていたし、多分、コーチにも仲間にも、理解してもらえないと思ったから。一度、ツラいというようなことを言ったとき、その場にいた人に『食べればいいだけ。食べないのは甘えじゃない?』というようなことを言われたんです。『そうか、甘えなのかぁ』って、それから何も言えなくなってしまった」
鈴木さんは大学側の提案を受け入れ、自宅に戻り、治療も始めた。だが、体重は減り続け、夏までに32キロまで落ちてしまう。
回復に向かわない原因の一つは、母の言葉だった、という。
「何でもいいから食べなさい。スケートなんて辞めていい。とにかく普通の女の子として生きてくれればそれでいいの」。娘の命を守りたい一心から出た言葉はしかし、逆の意味で鈴木さんの心に届いてしまう。
「スケートを辞めたら、治ったところでその先、私は何を目標に生きていけというのか? 私は、母の言葉を受けて、成績を出さなければ、頑張れなければ、好きなスケートを続けることを許してもらえないと思ってしまいました。
今となれば、心配から出た言葉だと、娘がどんな状態でも母は受け入れてくれるとわかります。でも、私は受け止め方を、母は使い方を、間違えてしまった。お互いの歯車が噛み合わなかったんです」
その後、鈴木さんは心のうちをすべて母に吐き出した。何度も話し合いを重ねるうちに、母の言葉が変わった。
「生きているだけでいいし、食べたいものを食べればいいわよ」。この一言が、摂食障害から抜けるきっかけになった、という。
「このとき初めて、私って無条件に生きていてもいいんだって思えました。私なんてスケートもできない、学校もいけない、寝たきりの親のすねかじりだと思っていたけれど、そんな自分をようやく許せた。そして、母は『スケートは諦めなくていい。続けていいよ』とも言ってくれた。その言葉で、“生きるための目的”を失わずに済みました」
その後、少しずつ体重も増えていき、10月、自分から申し出て大学に戻る。再び食べられなくなるかもしれないという恐怖から、泣きながら母に電話することもあったが、母や「不安になったらいらっしゃい」と声を掛けてくれる、内科医の看護婦の言葉が励みになった。
「体の検査や栄養指導を受けるうちに、自分の状況を理解し、競技に復帰するための現実的なプロセスが見えてきたことも良かった。最初は歩くことしかできなかったので、復帰までの道のりは途方もないというか、『これはヤバイ!』とは思いましたが(笑)」
12月、38キロまで戻り、約5か月ぶりにリンクに立つ。そして翌年1月にはインカレに出場。以前の状態には程多く、表彰台には登れなかったが、とにかく、スケートができた。