ジョセフHCを電話一本で日本代表入りさせた男 “赤鬼”が8強入りを確信する理由
梨で空腹を満たした“赤鬼”、2年でのNZ帰国を返上して日本代表闘将へ
「最初はイタリアか南アフリカでプレーするつもりだった。でも(移籍交渉で)決まったのは日本だった。1年目は、生活や練習の環境が違うんでキツかったね。早く帰りたかったし、選択を間違えたと思った」
当時は、まだ日本でプレーする外国人選手は多くなく、十分な情報を得られずに来日。食べ物が口に合わず、ニュージーランドで食べていた洋梨と味の似た梨で胃袋を満たす時期もあった。
来日時は、2年プレーした後に、再びNZに帰国してオールブラックス挑戦を考えていたマコーミック氏だが、日本のラグビーにも慣れた2シーズン目は東芝府中(当時)の中心選手として活躍。メンバーとの絆も強まり、同シーズンに全国大会で優勝を逃したことで、当初の予定を変更して日本での挑戦を続けることを決めた。
“赤鬼”という愛称の由縁ともなったハードタックルで、周囲では1995年ワールドカップでの日本代表入りを期待する声もあったが、マコーミック氏は「まだ日本協会の中でも、いろいろあった」と振り返る。
95年大会後に国際ラグビーボード(IRB)はプロ容認へと舵を切ったが、当時の日本ラグビー界は依然としてアマチュアリズムを厳守していた。外国人選手についても、第1回ワールドカップから活躍するシナリ・ラトゥのような留学生選手と、企業チームと契約した助っ人外国人を差別化するような風潮も一部にはあった。
その前近代的な“呪縛”を解き放ったのが、95年大会後に代表を指揮した山本巌氏であり、1年でバトンを受け継いだ平尾誠二氏だったという。
「いまリーチが代表主将になっているから、最近はよく初めての外国人主将ということも聞かれるけど、平尾さんとは1度もその話をしたことはなかった。外国人という意識は、スタッフにも僕にも全然なかったんです。東芝でもキャプテンをやっていたし、平尾さんからは、ただ『あなたが一番いいと思っている』と聞きました」
いまや確認することはできない平尾氏が考えた任命理由だが、おそらくマコーミック氏がプレーヤーとして、そして人間として、日本代表のスキッパーに相応しいと判断していたのだろう。