吉永健太朗のシンカーを忘れない 甲子園V投手が別れを告げた「人生を変えた」魔球
浮いて、逃げて、落ちる。8年前の夏、その軌道は高校野球ファンの心に刻まれた。
日大三の元エースが26歳で引退、激動の野球人生に刻まれるシンカーの記憶
浮いて、逃げて、落ちる。8年前の夏、その軌道は高校野球ファンの心に刻まれた。
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2019年冬、1人の甲子園優勝投手が白球を置いた。吐く息も白い、師走のある夜。東京・神楽坂にネクタイを締め、現れた。「今まで、ありがとうございました」。物腰柔らかく、頭を下げた。スーツを着ていてもわかる、飲み屋街を歩くサラリーマンとは一線を画す体つき。男の名は、吉永健太朗という。今季まで、社会人野球のJR東日本に在籍していた26歳だ。
最後に会ったのは、夏前のこと。7月にこんなコラムを書いた。「最強の甲子園V投手は死んでいない 二刀流、手術、結婚 吉永健太朗、8年後の夏の真実」。2011年夏に日大三のエースとして甲子園制覇。当時、スポーツ紙記者1年目で取材した筆者はナマで観た背番号1に心奪われ、以来、「最強の甲子園優勝投手」といえば、この男になり、追いかけてきた。
しかし、あの夏の“その後”を知る者は少ない。そう思って、激動の8年間を記した。当時の内容を改めて振り返りたい。
大学デビューは華々しかった。早大1年春に主戦として、いきなり全国優勝。多くの関係者が「3年後のドラフト1位」を思い描いた。ただ、2年以降はフォームを見失って不振に陥り、大卒プロ入りを断念。高校の同級生だった明大・高山俊(現阪神)、慶大・横尾俊建(現日本ハム)らがプロ入りする一方でJR東日本入りしたものの、再起を期した社会人野球で悲劇が待っていた。
1年目のオフ、素質を感じた堀井哲也監督(当時)の勧めで野手に挑戦。投手として練習する傍ら、2年目の3月のオープン戦、走者として頭から帰塁した際に右肩を亜脱臼し、靱帯も一部断裂した。回復が見込めず、秋に手術。医師に「投手として復帰できる確率は30%」と言われた。翌年はリハビリに専念するため休部。社業に勤しむ傍ら、仕事後や休日を使って復帰を目指した。
かつて「世代No.1投手」といわれた逸材が、泥水をすするような日々を過ごしながら、1年後のテスト登板で見事に野球部復帰。7月の都市対抗の前に話を聞くと「将来のことはもう見ていないので。1年1年が勝負。都市対抗で投げること、怪我をしないこと。目の前だけを見て、それを積み重ねた結果、3年先、5年先も野球ができていたらいい」と真剣に語ったことが印象的だった。
当時、記したのはここまで。もう一度、あの夏みたいに躍動する姿が見たい。明るい未来を願って別れたが、しかし――。
「頭が真っ白になったので。とにかく“今年でユニホームを脱いでもらう”ということだけは理解しました」
挨拶もそこそこに、席に着いた和食屋のカウンターで、吉永は切り出した。
11月25日。社内勤務中に電話が鳴った。チームから呼び出され、説明されたのは「勇退」という事実だった。来季の構想から外れたことを意味する、いわゆる“上がり”。入れ替えが激しい社会人野球の名門、ただでさえ26歳は中堅に突入する年齢だ。いつ何があってもおかしくないという覚悟をもって、取り組んできた。それでも「頭が真っ白」になったのは、理由がある。
ベンチ入りした都市対抗こそ登板機会はなかったが、夏以降は実戦で徐々にイニングを伸ばし、最長4回を投げられるまでに回復。球速も140キロを超えた。「もう1年やれれば、145キロは投げられる」と確信していたのだ。
「夏から秋にかけてが一番状態が良くて、来年はチームに貢献できるとも思っていた。ただ、残れるか残れないかは半々くらいの気持ちだった。だから、言われた瞬間はショックな気持ちもあったけど、すぐに受け入れることができた。振り返れば、良いことも悪いこともあったけど、充実してますよ、僕の人生。普通の26歳よりは濃かったんじゃないかなと今、思っているので」
怪我も、挫折も、味わった野球人生。後悔はないのか。間を置くことなく「それは、ないですね」と言い切った。迷いのない言葉の裏には、誰もが味わえることのない「18歳の夏」の経験があったからに他ならないだろう。