競技は「人生の通過点」 自転車女子選手が“恋愛も隠さない”欧州で見た日本との違い
五輪出場から欧州挑戦の転機「ヨーロッパに行かないと意味がない」
ロードサイクリストに転向して間もなく、沖は頭角を現す。2年後の1998年、第1回全日本自転車競技選手権大会で優勝。あっという間に国内では敵なしのポジションへと駆け上がり、00年、子どもの頃からの目標だった五輪に出場する。
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「まさに夢が叶った瞬間。振り返ると、シドニー五輪を決めた時が一番うれしかったし、一番緊張もした」
しかし、その高揚感はスタートラインまでだった。
ロードレースは年間を通して、ほぼ顔触れでレースを競う。選手らはそこで、互いの走りの特徴を知り、走りの得意不得意やコースの特徴、天候を見つつ、駆け引きをしながらレースを展開する。日本で走っていた沖は、一人ふたりの選手の名前と顔が一致する程度で、「どう走っていいのかまったくわからなかった」と振り返る。
「ロードではライバルとも協力し合う場面が多々あります。例えば集団から遅れそうになれば“大丈夫”と背中を押したり、話し合って集団での役割をローテーションしたりもする。また、長いレース中、食料を分け合うこともあるし、水のボトルを落とした選手がいれば、自分のボトルを手渡すのも普通です。
でもそれができるのも、普段から同じレースを戦い、交流があるから。 “どんなに練習を重ねても、国内で一生懸命走っているだけでは絶対に世界では勝てない。競技を続けるならヨーロッパに行かないと意味がない”。オリンピックを走りながら、そう考えていました」
翌年、01年8月。沖はテストライダーとして、フランスに渡る。間もなく、フランス籍のCA・マンテ・ラ・ヴィル・78と契約。日本人女子選手が欧州プロチームと契約したのは、これが初めてのことだった。
「でもフランスでは言葉の通じないツラさを痛感。チームメートとは交流できない、テレビを観ても何を言っているのかわからない。毎日が本当に孤独でした。それでも、自転車に関してだけは、やるべきことがわかった。帰国する時は引退する時だと決めていたので、ものすごい集中力で練習に取り組みました」
2002年5月、フランスの歴史ある大会、トロフェ・デ・グランプールで優勝。周囲の目が一変し、オファーが殺到した。「英語もろくに話せないのに、じゃんじゃんオファーの電話がかかってきて大変でした(笑)」。そして、世界一といわれるオランダの名門・ファームリッツと契約する。
「やはり強豪チームは勉強になる。いい練習ができていたし、乗れば乗るほど、目に見えて上達した。引退するまでの8年間、ヨーロッパのチームで走っていたけど、常に力が伸びていることを感じていたので、すごく楽しかったですね」