元2冠王ポンセ、引退後に16年間トラック運転手 日本球界での成功導いた“変化を恐れぬ”生き方
活躍できる助っ人の必須条件「日本で学んで、成長しよう」
「シュートもフォークも、アメリカになかったわけではないけれど少なかった。反対に日本はボールを変化させる野球だったからね。さらに、私はアメリカでは二塁打、三塁打を打つバッターだったのが、ホエールズではホームランを期待される。他にいなかったからね。何とかアジャストする必要があったんだよ」
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米国時代からずっと長さ34インチ(86.36センチ)のバットを使っていたのを、重さは変えずに33.5インチ(約85.09センチ)に。さらに打席の後ろ寄りに立っていたのを前よりに変えて、曲がってくる前に打てるよう工夫した。クラウチング気味に、前かがみで立っていたのを、背中を伸ばすようにした。
大洋での現役終盤に、眼鏡をかけたのも同じだ。1989年に打率が.264、本塁打も24本に減った。セ・リーグ最多の二塁打33本、三塁打7本を記録したものの納得がいかなかった。「数字が落ち始めて、何が原因なのかなと思ってやってみた。でも眼鏡をかけても、成績は上がらなかったけどね」と笑う。
大活躍する外国人打者が減った今も、同じことが言えるのではないかという。
「アメリカに気持ちを残したままプレーをしている選手が、日本で伸びることはありません。日本で学んで、成長しようという気持ちのある選手が、結果的にメジャーリーグに戻ってもプレーできているんだと思います」