亡き盟友・平尾誠二との約束 協会新会長として受け継ぐ“日本ラグビー改革”の遺志
病室での姿が「いまだに忘れられない」
世界で手腕を認められた指導者をピックアップするなかで、2人が重視したのが日本でのプレー経験。この条件が、現在のジェイミー・ジョセフHC就任を大きく後押しすることになったが、その選考過程の段階で、ニュージーランドでもジョセフ氏のアシスタントコーチを続けてきたトニー・ブラウンのコーチ入りが必須の条件という判断もしていたという。
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ジョセフHCは、平尾監督、土田HC時代の99年W杯では日本代表の選手だった間柄だ。日本協会を牽引する岩渕健輔専務理事、ジョセフ氏との契約交渉を受け持った薫田真広氏(東芝ブレイブルーパス東京GM)も、同じ平尾ジャパンのメンバーとして世界に挑んだ仲間だった。平尾さん、土田会長だけではなく、99年に世界に挑み、弾き返されながらも、その壁の厚さも高さも学んだ男たちが、力を結集して日本協会、日本代表を牽引しているのだ。
だが、平尾さんが要となった改革が動き出したと誰もが感じた矢先に、辛いニュースが土田会長の耳にも届くことになった。
「残念ながら、その年(2015年)の9月に平尾は吐血して、癌が見つかった……。彼は悔しい思いだったはずです。今でも僕の脳裏には、平尾が病室でワールドカップの中継を、神戸製鋼のビデオを見ている姿が鮮明に焼きついています。この姿がいまだに忘れられません。(会長就任まで)7年間ずっと理事を続けてきたのは、もしかしたら平尾とともにやり遂げられなかったことが、まだまだあると思っていたからなのかなと思っています」
翌16年10月に、平尾さんは53歳の若さで亡くなった。ラグビー界は大きな柱を失ったが、故人の思い、楕円球への情熱は、土田会長をはじめ平尾世代、平尾ジャパン世代の盟友たちに引き継がれた。
(後編へ続く)
(吉田 宏 / Hiroshi Yoshida)